第十九章 これはもう、忘れられないな
誰にも気づかれないように。
ただ、ほんの少しだけ。
声を聞かせてもらえたらと思っただけだった。
ユエリーは夜更けの迎賓館の一角、
あやのの部屋の窓辺の陰に、音もなく降り立っていた。
月は満ち始め、空気は澄んでいた。
風の流れで開いた窓の隙間から、柔らかな光が漏れている。
(もう、戻ってるかな。少しだけ……声、聞きたいな)
声をかけるつもりも、顔を見せるつもりもなかった。
ただあの子が笑っていてくれたら、それでよかった。
ふと、視線が止まった。
──あの花だ。
ユエリーがあやのに渡した、白銀の宝石花。
だが、その花はもう、
銀ではなかった。
目を見張った。
花弁が、やわらかな紅銀に染まり、まるで体温を持つかのように、
月光をまといながら、静かに呼吸しているようだった。
(そんな……)
あれは、ユエリーが知る限り、
一度誰かに手渡された後、決して色も形も変わらぬ花だった。
思いが伝わっても、伝わらなくても、ただそこで静かに枯れずに咲き続けるだけ。
そういう、ただの「終わりの花」だった。
けれど、今。
それは咲き変わり、息づいている。
──“返された”のだ。
直接言葉にしなくても、想いが、想いとして受け止められたこと。
そして、それに優しく、肯定的に“返歌”されたこと。
「……あは、あはは……!」
声が震える。
笑おうとしたのに、どうしてもこみ上げてくるものが止められなかった。
胸の奥で何かがゆっくり崩れて、
かわりに何かあたたかいものが、にじみ出てくる。
「ずるいなぁ……あの子……」
瞳から、知らぬ間に涙がひとすじ滑り落ちていた。
それは、悔しさではなかった。
寂しさでも、諦めでもなかった。
ああ、
これは、恋が終わるときの涙じゃない。
これは、初めて本当に愛されたことを知ってしまった者の涙だ。
「うん……これはもう、忘れられないな」
ユエリーは微笑んだ。
泣きながら笑う。
それは、かつてどんな戦いでも敗けたことのない龍王が、
ひとつの恋に完敗した証だった。
けれど、それを悔いにはしなかった。
その証がこの花なら、それでよかった。
そっと手を合わせ、花にだけ一礼を送る。
そしてまた、風に乗って夜の空へ戻っていった。
彼はもう、花に触れようとはしなかった。
ただ、あやのがその花を大切にしている限り、
その想いはどこにも消えず、永遠に香り続けるだろう。




