第十八章 名も無き返歌(へんか)
夜。
あやのの部屋に、蝋燭の明かりがぽつりと灯る。
誰もいない、穏やかな静けさ。
机の上には、白い皿に敷かれた布の上に、たった一輪の白銀花。
ユエリーから受け取って数日が経っていた。
あやのはそれを毎晩眺めていた。
語られなかった想いが、花弁の中に隠れているような気がして。
──「旅立ちの御守り」
そう言われたけれど、きっとそれだけじゃない。
彼は、笑っていたけど、本当は。
(伝えたかったんだろうな)
触れようとして、引っ込めた指。
でも、今夜はそっと手を伸ばして、その花に触れた。
すると──
「……っ?」
静かに、花がゆらいだ。
温度のないはずの花弁から、かすかに脈動のような光が広がっていく。
一枚、また一枚──白銀だった花弁が、うっすらと紅を帯び始めた。
(咲き変わってる……?)
信じられない思いで見つめるあやのの前で、
花は紅銀の花へと、姿を変えていった。
まるで、あやのの鼓動に呼応するように。
まるで、彼女の心の奥に生まれた**言葉にならない“返事”**を、代わりに咲かせたかのように。
──どんなに感謝しても、
──どんなに想いを受け取っても、
──私の“いま”はもう決まっている。
──けれど、あなたの気持ちは、たしかにここにある。
それは、断るでも、応えるでもなく、ただ“あなたの花を見ている”という証。
そして次の瞬間──
「……あれ、香る……?」
あやのの鼻を、わずかに甘く透き通った香りがくすぐった。
咲き変わった紅銀の花は、かすかに息づいているようだった。
そこに込められていたのは、
たった一つの、名もない言葉。
──**「ありがとう」**
それを誰が言ったのか、誰が受け取ったのか。
もはやわからない。
けれど、それは**たしかに“恋の終わり”ではなく、“想いの昇華”**だった。
あやのは微笑んだ。
そっと、花を両手で包むように持ち上げ、窓辺へ。
月がちょうどのぼりはじめていた。
ユエリーがいつも見ている、あの月。
「見えてるかな……ユエリーさん。
私はこの花、きっと大事にするね。だって、あなたがくれた奇跡のような贈りものだから」
風が静かに吹き、花がふわりと揺れる。
それはもう、ただの“旅立ちの御守り”ではなかった。
それは、受け取られた想いの証であり、
言葉にできないままでも、伝わる何かが、たしかにここにあるということ。
あやのは、花を胸に、深く息をついた。
(私はもう、大丈夫。これで前を向ける)
──そして、まだ見ぬ未来へ向かって、また一歩、静かに進みはじめた。




