第三十二章 言葉にすること
模型が完成したのは、日が落ちた後だった。
出るビルの三階、会議スペースのテーブルに、厳かに置かれた透明な箱。
「共鳴の回廊」の1/100模型。光を当てると、壁面の反射パネルが細く反射して、どこか楽器のような佇まいを見せた。
机の向こうで、司郎が腕を組み、じっとそれを見ていた。
やがて「あいかわらず、美しいものをつくるわね」とぽつりと言った。
「でも、これを“伝える”のは、あんたの役目よ、あやの。図面と模型だけじゃダメ」
あやのは少しだけ息を飲んだ。
「……言葉が、難しいんです。音はあるのに、ちゃんと説明する自信がない……」
「当たり前だ。あたしたち建築家は、みんな“翻訳者”よ。
心の中で鳴ってる音を、形にして、図面にして、人間の言葉に直すのが仕事。
難しい? いいわよ。じゃあ、演じなさい」
「え……?」
「演技。舞台。プレゼンってのは、つまり“観客の前で演じる”こと。
自分を偽れとは言わないけど、“見せる自分”を決めて、その役をやるの。
あやの、あんたならできる。言葉にならないものを、一番持ってる子なんだから」
その言葉に、あやのは少しだけ背筋を伸ばした。
横で聞いていた梶原が、言葉少なに差し出したのは、小さな紙の束だった。
「……話すこと、要点だけメモした。読んでもいい」
紙には、模型の仕組みや音の伝播構造、ピアノの残響実験の結果などが端的に記されていた。
あやのの手が、ふるりと震えた。けれどすぐに、そっと握りしめた。
「ありがとう……梶くん」
司郎が、少し口を尖らせた。
「なによ〜、あたしもいるのに、そっちだけ“くん”付けして〜」
「……司郎さんは、司郎さんです」
「うふふ、まあいいわ。明日は晴れるわよ。雷が鳴らないだけマシと思いなさい」
そう言って、司郎は眼鏡を直しながら席を立った。
「明日の10時、教授室。うちら“出る事務所”の初陣よ。
あんたの声で、始めるの。あたしたちの建築を、世に出す第一歩」
模型の反響板に、窓からの街灯がゆらりと映っていた。
まるで、聴こえない拍手がそこにあるようだった。