第十六章 奪えない恋ほど乾く
夜、ひとりきりの迎賓館の書斎。
窓は開け放たれ、夜風が帳をふわりと揺らしている。
灯りは落とされ、ただ月明かりだけが、机の上の巻物を照らしていた。
ユエリーはそこにうつ伏していた。
頬杖をついて、手持ち無沙汰に爪先で魔法陣を描いては消す。
「……負けたな」
ぽつりと落とした声は、誰に届くものでもない。
けれど、その言葉には、珍しく重さがあった。
「綺麗で、聡くて、優しくて、……あの子、本当にどうしようもないくらい、惹かれたんだよ」
初めて会ったときの、あやのの瞳。
怯えも拒絶もなく、真っ直ぐに目を合わせてくれた。
あんなふうに、“何の立場もなく、ただのユエリー”として扱われたことが、果たして千年の間に一度でもあっただろうか?
「王だとか、両性だとか、神獣の血だとか、みんな私を見るときは、そういう“肩書き”でしか測らない」
けれど、あやのは違った。
「“あなた”は、どうしたいんですか?って──あの子、あの目で、まっすぐ私に聞いたんだよ。まるで、誰でもない私を知ろうとしてるみたいに」
月の光が、ユエリーの頬に反射する。
それは涙ではなかった。ただ、肌が少し濡れて見えるだけだ。
「だから、欲しくなった。こんな私でも、“自分のまま”で隣にいられる存在を、手放したくなかった」
だが──それが、もう“誰かのもの”だと知っていた。
あの少女の隣には、誠実すぎる青年と、不器用な愛を貫く年長者がいた。
「……いい男たちだったよ、ほんとに。あれじゃあ、勝てるわけないじゃないか」
笑った。
でもその笑いには、熱がなかった。
「どうせ私の恋なんて、いつも“誰かに先を越される”んだ。軽そうに見えるんだろうなあ。強いって、万能って、ずっと誰かに思われて──
ほんとは、寂しいって一言、言うだけで千年もかかったのに」
手を伸ばせば、あやのに届く気がした。
でも、あの子はもう“帰る場所”を決めている。
その場所に、私の居場所はない。
「……それでも、諦められると思う?千年生きて、一度しか恋をしなかったこの私がさ」
ふと、掌を開く。
そこには、あやのに渡そうと作っていた“龍界の宝石花”があった。恋慕を象徴する、たった一輪の銀の花。あの子に渡すには、もう遅すぎる。
「でも、渡さなきゃ、私はずっと止まったままになる」
月麗は立ち上がった。
「……あやの。私、あなたが誰のものになっても、もうきっと、嫌いになれないよ。それでも、ほんの一瞬、私を見てくれたその記憶だけで、生きていけるかもしれない」
月は今日も静かに満ちていた。
その光の下で、ひとりの龍王が、初めての本当の恋に敗れ、なお微笑んで立っていた。




