第十三章 変わってもいい
風の弱い夜だった。
小さく虫の声が聞こえて、草木の葉擦れも穏やかに響く。あやのは寝室の窓を細く開け、そこから外の空気を吸っていた。
月は高く、白く、満ちている。
──変わるということ。
今日、ユエリーと話した中で、あやのはあらためて思った。自分がいま、歩いている道の先には、たしかに**“選び直す自由”**がある。
けれど、それは一人で抱えるにはあまりにも広くて、深い。
あやのはひとつ、息を吸って寝室を出た。
誰かに会いたいというより、空気の匂いをもっと確かめたくて、あるいは──誰かの気配を、探していたのかもしれない。
屋敷の裏庭に出ると、そこにはすでに灯りがあった。
木製のテーブルに、小さな湯のみが三つ。
その前に座っていたのは──司郎と梶原だった。
ふたりともあやのに気づいていたのだろう。
顔を上げる前から、席をひとつ分、空けて待っていた。
「あら、寝られなかったの?」
司郎がそう言い、梶原は無言で湯を注いでくれた。
あやのはそれを受け取りながら、目を伏せた。
「……司郎さん、梶くん」
「ん?」
「今日、ユエリーと話したの。私の身体が、まだ“途中”かもしれないって」
「──」
ふたりの気配が、すこしだけ張った。
あやのは続ける。
「私は“女性”になったことを、後悔してるわけじゃないの。でも、いまの私は、ただ流されただけだったんじゃないかって、少し思ってる。あの時、あの場所で、必要とされた形に、無意識に変わってしまっただけで……」
誰も言葉を挟まない。
ただ、夜の空気がそのまま語らせてくれた。
「だから、自分でちゃんと決めたい。この身体が“私”にとって一番なのか、それとも……もっと別の可能性があるのか。知りたいし、怖いし、でも、見てみたいって思う」
その言葉に、司郎が小さく笑った。
「……あんた、ほんと手がかかるわねぇ」
「ごめんね」
「でも、誇らしいわよ。自分で選ぶって、何より大事なことなんだから。どんな形でも、あんたはあんた。あたしはそれをずっと誇りに思ってる」
司郎の声は、やさしく、でもどこか泣き出しそうな響きだった。
あやのが視線を梶原に向けると、
彼は湯のみを両手で包んだまま、静かに口を開いた。
「……俺は、お前がどう変わろうと関係ない。俺が惚れたのは、形でも名前でもなくて、あやのだ。その“在り方”がどんな姿でも、俺は横にいる」
「梶くん……」
「それに、俺もお前に変えられてきた。お前がいなければ、いまの俺はいない。だから今度は──お前が変わるその先で、また俺を見つけてくれればいい」
──涙がこぼれた。
あやのは何も言わず、ただ静かにその場で目を閉じた。湯のみが温かくて、指先にその熱が伝わってきた。
気づいていた。
ずっと、自分のそばにはこのふたりがいた。
支えたい、守りたい。
そう言葉にせずとも、どれだけの想いでここに居続けてくれたか。
「ありがとう、ふたりとも」
ぽつりと言ったあやのの声は、夜に染み込むようだった。
そしてその夜、あやのは初めて
“変わっていいんだ”と、心から思えた。
選ぶことは、何かを手放すことじゃない。
手の中に残る温かさを抱いたまま、
少しずつ、未来の自分に近づいていくことなのだと。




