第十一章 龍界薬学
迎賓館の貴賓室──その中心にある石造りの長机に、今日もあやのは座っていた。
龍王・月麗が用意したものは、大小さまざまな薬瓶、解剖図、そしてなぜか湯気の立つ茶器だった。
「薬学って言っても、ただ病を癒すことじゃない。
身体そのものの在り方を、選び直す技術でもある」
そう言って月麗が、淡い翡翠色の液体をひとつの器に注ぐ。
「あやの、ちょっとこれに触れてみて」
「えっ、これ……飲むんじゃなくて?」
「ただ、手をかざして」
言われた通り、あやのが両手を器の上に添えると──
水面がわずかに揺れ、薄く光った。
「……反応した」
「そう。それが、“変化の兆候”だ」
月麗は、しなやかな指で薬瓶をとり、さらに三つ、似た液体を並べる。
「この液体は、龍界で“核律精”と呼ばれるもの。
心と体の状態が変化に向かうとき、それに反応して光を発する」
「……体の、変化?」
「君の身体は、もともと“無性”だった。
そしていま、君は“女性”として日常を過ごしている。
そのこと自体に違和感は、ある?」
「……違和感は、ないです。だけど……」
あやのは、言いにくそうに言葉を探した。
「ときどき、ふと、これが本当に“終わり”なのか、って思うんです。
この体が完成形なのか、まだ途中なのか──それが、よくわからない」
月麗は頷いた。
「それは当然のこと。
龍界では、“肉体は流転の器”と呼ばれる。
意志、経験、感情、記憶──そうしたものが、形を変えるごとに、器も変わる。
君はいま、“成長の途中”だ。変わりうる余地を、まだ宿している」
「……変わる、って、どこまで?」
「性も、年も、能力も。
ただし、それは“選べる”ことでもある。
無意識に形作られるのではなく、“どうありたいか”という問いに、肉体が応えることもある」
ユエリーは、机の上に一冊の古い書を開いた。
そこには、**「無性体の変容記録」**と銘打たれた頁があった。
「この記録にある者たちのほとんどが、自分の意思で“変化の方向”を決めている。君も、いつか選ぶことになるかもしれない。いまの“女”というかたちが、確信に至るのか、それとも別の何かを望むのか」
あやのは、そっと自分の手を見る。
手のひら。爪の形。
ほんのすこし角度を変えただけで光を帯びる、繊細な肌の構造。
「……私、これが“選ばされた”のか、それとも“選んだ”のか、まだよくわからないです」
「それでいい」
月麗はやわらかく微笑んだ。
「迷いがあるうちは、結論を出さなくていい。
だが、知識と方法は、用意されている。薬学は、そのためにある。迷いを“道”に変える手段として」
あやのは頷いた。
そして机の上の“核律精”が、かすかにまた光るのを見つめた。
「私……もっと知りたい。自分の身体のことも、心のことも──“私”という存在が、どこへ向かっていくのか」
「なら、いつでも教える。留学とは言わない、ただ“扉を開く”だけでいい。君の中の、選ぶ力を育てるために」
その日から、あやのは龍界式の薬学と身体学を学び始めることになる。
だがそれは、記録者としての務めとも、戦うための力とも違う、“ひとりの人間”としての、もっとも深い問いへの第一歩だった。




