第九章 龍王、地雷を踏み抜く
あやののまわりを、龍王はひとまわり、いや正確には三百六十度ぐるりと歩いて観察していた。
その眼差しはまるで美術品でも見るかのようで、品定めというにはあまりに真剣で、される側としてはただただ困惑しかない。
白くて細い指先が、空気をなぞるように動いた。
「ほう、星眼……まさか現代に遺るとは。しかも……うん、君」
龍王があやのの顔を正面から見据える。
「すごく綺麗だし、可愛いね。気に入っちゃった」
言葉の勢いに押されて、あやののまつ毛がぴくりと揺れた。
「……え?」
「私のお嫁さんになってくれない?」
その言葉が終わると、空気が──変わった。
あやのの背後で、まず、ひときわ濃い殺気がふわりと広がった。
音はしなかった。
だが明らかに“何か”が砕けた気配がある。
静かに、湯呑が割れた。
「……あのねえ」
あやのの肩越しから、ゆっくりと現れたのは、黒縁眼鏡の司郎正臣だった。
「うちの子に手ぇ出す前に、親に挨拶しなさいって誰にも教わらなかったの?」
「いや、あの……」
「まさか魔界に来たばっかのペーペーだと思って舐めてんじゃないでしょうねぇ? あんたが龍界で何千年生きてようと、関係ないのよ。あたしの子に触るな」
その語尾に、怒りというより呪詛のような重さが混じっていた。
ついさっきまでいたずらな風を吹かせていた龍王の髪が、すうっと後ろに引いた。
だが、もうひとりの“火種”が黙っているはずがなかった。
「……あやのは、俺の嫁だ」
小さく、けれどはっきりとした声が響いた。
梶原國護だった。
感情は表に出ていない。
それなのに、空気の温度が一気に下がったような気がした。
その腕には、剣も槍もない。
けれど──背中の気配だけで、斬られた気がした。
「俺が不在のとき、勝手に触るな。ましてや、勝手に“嫁にする”とか言うな。次は言葉じゃ済まさない」
「は、はは……」
ユエリーが苦笑を浮かべたとき、さらなる災厄が足元から跳びかかった。
「あっ」
黒い影が風のように走る。
それは、忍犬・幸だった。
体を小さくまとめ、しなやかに龍王の外套を引き裂きにかかる。
「ちょっ、何!? 犬!? 可愛いけどめっちゃ怒ってる!?」
「わんっ!!(通訳:記録者様にふざけたこと言ってんじゃねえ!!)」
布がビリリと裂け、龍王が後ずさった。
三方からの怒気と、足元の牙と、あまりにも明白な拒絶。
あやのは、わたわたと手を振った。
「ちょ、ちょっとみんな! 私はただ、びっくりしてるだけで──」
「いいの、あやのは黙ってて!」
司郎がぴしゃりと遮る。
「そうよね、うちの子はね、惚れっぽくないけど惚れられやすいのよ! でもそれと、言い寄っていいかはまったく別の話なの!」
「俺はどうすればこの怒りを鎮められるか考えてるんだが、今のところ“殴る”以外浮かばない」
「わんっ!(それが正解)」
あやのは、そろりと後ずさった。
「えっと……ごめんね、ユエリー……たぶん、タイミングが悪かったんだと思う……」
「違う、文化が違ったんだよ! うちでは第一印象で決めるんだよ! みんな落ち着こうよ!? 誰か龍界文化を紹介してぇ!?」
だが、すでに空気は固まっていた。
翌日、龍王・源龍月麗は、
「記録者への求婚は、段階を踏んで議会を通すこと」
という新規条文の成立とともに、魔界に一時的な外交制限をかけられることとなった。
そして。
牢の中、ユエリーはしょんぼりとうずくまっていた。
「こんなにピュアで怒られるプロポーズ、初めてだよ……」
異世界の風は、今日も逆風だった。




