第三十一章 かたちに宿る
東京は、灰色の空を天井にしていた。
雨が降るでも、晴れるでもない。
湿度だけが濃く、あやのの髪をふわりと膨らませている。
出るビルの二階、元・給湯室を改装した小さな模型室。
一枚板の作業台に、紙、木片、透明な樹脂の部品が散らばっている。
あやのと梶原は、ほとんど言葉を交わさないまま手を動かしていた。
「……ここ、2ミリ下げる」
梶原が、ルーターでアクリルの土台を削る。
微かに焼けるようなにおいが立ちのぼり、換気扇が低く唸った。
あやのは透明なアクリル片を指先でつまみ、そっと嵌め込んだ。
それは、回廊の壁の反射板となるパーツだった。
わずかな角度で、音の跳ね返りがまったく変わってしまう。
目ではなく、耳の感覚で調整していく。
「……これでいいか?」
「うん。ちゃんと響いてる」
あやのは目を伏せ、模型に耳を近づける。
指先で机の天板を優しく叩くと、反響が微かに模型の中を通って跳ね返ってきた。
高い音。低い音。
どれも、回廊を巡って中央に帰ってくる。
音が生きている。
「……おまえ、すごいな」
梶原がぽつりとこぼす。
「なにが?」
「……音、見えてんのかってくらい、ずれない」
あやのは困ったように笑って、模型を指でなぞった。
「見えるんじゃなくて、聴こえるだけ。でも、ありがとう」
二人の間に、静かな空気が流れる。
重くなく、軽くもない。呼吸に似た、落ち着いた時間。
「あ、これ見て」
あやのは小さなスピーカーとICレコーダーを取り出す。
模型の中に組み込んだマイクに向けて、音を流す準備だ。
「試してみよう。音のループ、うまくできてるかどうか」
椅子を並べて、二人は小さな観客になった。
あやのが再生ボタンを押すと、スピーカーから小さな旋律が流れた。
ピアノの音。ゆっくりと、三音のフレーズが繰り返される。
Do — Re — Mi。
それが、模型の中をぐるりと回るように響き、そして中心に集まる。
まるで、見えない霧が音になって、回廊を彷徨いながら帰ってくるようだった。
「……まるで、幽霊のうたみたいだ」
梶原が低く呟いた。
あやのは頷いた。
「ね。あの子のピアノと同じ。きっと、ここに残ってた音が、いま響いてるの」
スピーカーの音が止まっても、模型の中にはかすかな余韻が残っていた。
それは聴こえないけれど、確かに“感じる”気配だった。
音が、建築と結びついた瞬間だった。




