魔界探訪記・第一章──風、光、そして大地の声
魔界の朝は、人間界のそれとはまるで違う。
空は薄い紫と青のグラデーション、太陽のように見える球体は三つ。ひとつは空を横に走り、ひとつは静止し、もうひとつは逆さに回転している。
「……なんなのよこの空。酔いそうなんだけど」
司郎が首をぐるぐる回しながらつぶやく。
足元の地面も、一見普通の土に見えて、じっと見ていると時折光を弾いた。
「これは……光合成じゃなくて魔素合成ですね、土が」
「言ってる意味はわかるけど認めたくないわね……!」
あやのは手に持ったスケッチブックにせっせとメモを取りながら、周囲の奇妙な植物をスキャンするように見回していた。
梶原はその隣を無言で歩き、時折視線だけで異変を察知していた。
「左、あやの。五歩先の草、たぶん動くぞ」
「はいっ、避けます!」
「あら便利な防犯センサー」
「俺は防犯装置じゃない」
そんなやり取りの中、黒い毛並みの護衛犬・幸が、ぴょこんと跳ねるように先導しながら進んでいた。
耳をピンと立て、尾をゆらゆら揺らしながら、あやのを振り返る。
「えらいね、幸。ちゃんと見張ってくれてる」
「……賢いし可愛いし忠義の塊だし、あんたよりよほど頼りになるかもね」
「司郎さん、毒が過ぎます」
丘を越え、しばらくすると、開けた視界の先に広がるのは――
動く森だった。
「……え? あれ、木が……歩いてる……?」
「歩いてるわね。しかも……リズム刻んでる? あやの、ちょっと歌ってみなさいよ。これ何かの交信手段かも」
「やってみます」
あやのは、小さく喉を潤すと、ゆっくりと風の音に調和するようなハミングを口ずさんだ。
まるで音が、大地と呼応するように、木々の歩調が揃い、彼女の前で立ち止まった。
「……すごい、止まりました。これ……歌の魔法が通じてる……?」
「ハミングで道を開いたってわけね。詩人スキル、早速発動ってとこかしら」
「ふっ、さすが俺の嫁」
「……あんた黙ってなさい、惚気が大気に影響するわ」
三人と一匹は、目の前に開けた**“歩く森”の一本道**を進みはじめる。
まだ旅の初日。記録は一行目。
けれどその足取りは、恐れではなく、確かな希望を踏みしめていた。
「記録者・真木あやの、魔界生態調査を開始します!」
と、スケッチブックに力強くペンを走らせた彼女の瞳には、世界のすべてを見逃すまいとする光が宿っていた。




