第五十三章 旅立ちの宣言
風が、硝子窓の向こうでざわりと木々を揺らした。
魔界の朝は静かで、けれどどこか人間界とは違う息づかいを持っている。
不思議な色の葉が、淡く発光しながら枝に揺れ、遠くでは空を泳ぐように羽ばたく魚の群れが、虹の軌跡を描いていた。
あやのは、そんな景色を見つめながら立ち上がった。
手には分厚いノートと、司郎から譲り受けた設計用の万年筆。
「……まずは、この魔界の動植物の生態系を調べて、記録します。
旅に出ようと思うんです。記録者としての仕事と並行して」
声には揺らぎがなく、静かながらも確かな決意があった。
司郎は、椅子の背にもたれたまま、ふっと鼻を鳴らした。
「なるほどね。郷に入っては郷に従え、ってやつか。……いいじゃないの」
彼女の目に、あの頃よりずっと強さが宿っているのを、司郎は見逃さなかった。
「……どうせならさ、魔界建築、極めてやろうじゃないの。
こんな訳のわからない素材や環境、普通の設計思想じゃまるで歯が立たない。逆に言えば、面白いじゃない?魔界にしかできない建築ってやつを、あたしが創ってやるわ」
言葉の端にふくまれる野心とユーモアに、あやのが微笑む。
そこに、梶原が立ち上がった。
その無骨な体躯は、何も語らずともどこか“盾”のような存在感を放っている。
だが彼は、静かに口を開いた。
「──ならば、俺はその旅の剣と盾になる」
その言葉に、部屋の空気が一瞬、引き締まった。
「すべての敵から……お前たちを守る。
あやの、司郎さん。お前たちのやろうとしてることがどれだけ価値あるものか、俺は知ってる。だから、必ず守る。……それが、俺の役割だ」
無駄のないその言葉に、司郎はぽんと掌を打った。
「決まりね。役割分担は完璧」
あやのは、胸の奥から湧き上がるものを感じながら、そっと言った。
「……ありがとう。ふたりがいてくれるなら、私、たぶんどこまでも行ける」
三人の視線が交わる。
それは、かつて建築でひとつになった日々とはまた違う、
“命”そのものを観測し、記録し、創造するための、新しい旅のはじまりだった。
魔界という、得体の知れない異世界の地を、
少女と建築家と鬼の剣が、ゆっくりと歩き始める。
その背中には、確かに──未来のかたちが宿っていた。




