第三十章 共鳴の回廊
事務所の会議室には、いつものように図面台が据えられ、窓際に司郎、壁際に梶原。
中央にはあやのが立っていた。
机の上には、白く透ける半透明のトレーシングペーパー。
その上に重ねられた線たちは、建築というよりも、旋律そのものだった。
「これが、私の案です。“共鳴の回廊”」
声は小さいが、言葉ははっきりしていた。
トレーシングペーパーをめくると、音の反射と吸収を意識した“回廊”が浮かび上がる。
それはホールを取り巻くように配置され、かすかな音を拾い、重ね、響かせる構造。
「……つまりこれ、歩くと音が返ってくるってわけか」
梶原が感心したように呟いた。
「はい。人の足音、話し声、音楽の余韻──
それらが、回廊の壁で反射し、やがて中央の空間に向かって集まっていきます」
「音の墓場じゃないわ。音の……なんて言うのかしら、リレー?」
司郎はあやのの線を指でなぞるように見つめながら、ぽつりと言った。
「音の“記憶装置”です。目には見えないものを、形にするために。
たとえば誰かが、かつてそこにいた証として。
拍手のひとつ、鼻歌のひとふし、全部この建築の中に残るように」
図面の脇には、小さなスケッチが添えられていた。
回廊の中心に、小さな円形のスペース──静寂の井戸、と名付けられた場所がある。
誰も音を出さないときだけ、“かつての音”がふわりと浮かび上がる空間。
「……亡霊のための建築、か」
澤井教授がぼそりと呟いた。
皆が彼を振り返る。教授は腕を組み、少し黙ってから、静かに言葉を続けた。
「いや、そうじゃない。生きてる我々が、忘れないための建築かもしれん。
過去と、今と、未来の音をつなぐ通路……“回廊”ってのは、そういう意味なのか?」
あやのは、うなずいた。
「そうです。回廊は、誰かの記憶に触れるための道。
建築は記録ではなく、“再生”だと思っています。
そこに立つたび、聴くたび、また違う音が生まれる。そういう……場所にしたいんです」
長い沈黙が訪れた。
風のない室内で、ひとつのアイデアが深く浸透していくような、静けさだった。
「──採用だな」
司郎が言った。眼鏡を外し、あやのを見た。
「物理的に無茶なとこもある。でも、やれる。やってみせる。
あたしが“形”にしてやるわ。で、あんたは?」
「……やる」
梶原は短く言い、もうすでに手元のノートにスケッチを走らせていた。
「じゃ、決まり。出るビル初のプロジェクト、“共鳴の回廊”。
設計責任者は司郎正臣。構造は梶原。コンセプトと意匠は、真木あやの。
あんたが主役よ、あやの」
「……はい」
そのとき、部屋の照明がふっと揺れた。
まるで誰かが嬉しさを抑えきれずに、そっと拍手でもしているように──。
「今の、……山形さんですね」
あやのがつぶやくと、壁の時計がぴたりと止まり、すぐに再び動き出した。
「幽霊たちも応援してるわね」
司郎が笑った。
あやのは目を伏せたまま、ふふっと笑い返した。
手元の紙の上、描かれた回廊の中心で、彼女の耳には確かに拍手が聞こえていた。




