幕間 : 夜の部屋に灯る、ひとつの魔法
夜の帳が下り、宿の廊下は静まりかえっていた。
そんな中、真木あやのの部屋の前にひとりの男が立っていた。
梶原國護。寡黙で無骨なその男は、手を軽くあげてノックすることもなく、ゆっくりと引き戸を開ける。
「……あやの」
部屋の奥、窓辺の椅子に座っていた少女が振り返った。まだ少し元気のない表情だったが、それでも笑顔をつくって梶原を迎えた。
「梶くん……」
その手には、ホットサンドとミルクセーキを載せた盆。湯気がふわりと漂い、甘く香ばしい香りが部屋に満ちていく。
「さっき、ほとんど食べてなかっただろ」
言うが早いか、梶原は有無を言わさず部屋に上がり込み、机の前に盆を置いた。
「食え。元気の資本は、まず食うことだろう」
「……ありがと。でも、わたし……」
あやのはうつむき、小さく息を吐いた。
「……私にだって、責任感じることくらいあるのよ」
その声には、ほんの少し棘があった。
けれど梶原は動じない。ただ、ごく自然な動作で、あやのの背後にまわると、そっとその背を抱いた。
「……理論を学ぶだけでも、それはお前の助けになるよ」
「……?」
「いつか、自分や誰かを守ることに繋がる。だから、止まるな」
その言葉と同時に、彼はあやのの手からホットサンドを取り、後ろからそっと口元へ運んだ。
「ちょ、梶くんっ!? 一人で食べれるよ、わたし!」
「俺が──お前に食わせたいんだ。……ほら、あーん」
「……っ、ぱく」
頬を染めながらも、あやのはホットサンドをかじる。
じゅわりと溶けたチーズとハムの味が、心にまで染みていく。
「もぐ……もぐ……」
「ちょっと……梶くん、これ、恥ずかしいよ……」
「じゃあ頑張って、自分で食べることだな」
そう言って笑う梶原の手は、しかし止まらない。
ひとくち、またひとくち。あやのが食べるたび、梶原の表情もほんの少しずつ和らいでいく。
「……あやの。食べながらでいい、聞け」
その声は、まるで遠い火を見守るように穏やかだった。
梶原はあやのの頭を優しく撫でながら、言葉を紡ぐ。
「お前の魔力や知識、才能……それは、いつか誰かを助けるためのものだ」
あやのの目が、少しだけ見開かれる。
「だから今は、その才能を磨け。派手さはない。地道だ。だが、そういう魔法の積み重ねは、きっとお前を遠くへ連れていく」
少しだけ、あやのの目が潤んだ。
「……空だって、いつか飛べる。俺にはそう思える。
そして、きっとお前は──大魔法使いになる。……そんな気がしてる」
あやのの手が、ゆっくりとホットサンドを取り、今度は自分でかじった。
「……ありがとう。梶くん」
それは、小さな魔法だった。
誰も気づかない、けれど確かに心に灯った、夜の魔法。
そして、窓辺で静かに見守っていた黒い忍犬・幸が、ふんわりとしっぽを振った。
そのしっぽが、まるで小さな星をすくうように、空気をなでた。
今夜、彼女はちゃんと、前を向いて食べた。
そして、また──歩き出すのだ。




