第五十一章 夜明け前の足音
──午前四時過ぎ。
魔界では夜が最も深く、時間の歪みが揺らぐ刻。
屋敷の外に、かすかな“音”が忍び寄った。
「……聞こえるか?」
梶原が目を覚ましたのは、幸の動きだった。
ぴたりと耳を立て、すでに玄関の前に立っている。背は低いが、その姿はまるで武器を携えた兵のように凛とし、静まり返った空気の中、何者かの接近を確信していた。
司郎も、起きていた。
「……魔界の気配じゃない。違う“位相”から来てる」
眼鏡をかける音がした。
「霧の歪みに乗って、入り込んできた……か」
あやのも起き上がる。眠気を振り払うより早く、脳が覚醒する。
星眼に切り替わる藍の瞳が、闇の中に潜むノイズを捉える。
――輪郭のない存在。
まともな術者でも、魔族でもない。
“記録”に存在しない、はぐれた“何か”。
「梶くん」
「──任せろ」
すでに鎖と刃を携えた戦闘衣に着替えた梶原が、幸とともに音もなく玄関へ向かう。
忍犬の鼻先が風を裂くように前を指し、確信が一つに固まった瞬間――
ドン……!
家の外壁を叩く、異様な衝撃。
空間そのものが揺れる。
「なにこれ……ッ、物理じゃない!」
あやのが叫ぶ。建物に加わった力は“実体”ではない。だが確かに、質量を持つ何かがそこにいた。
「記録外の存在……!」
司郎が、懐から取り出したのは一本の定規――**“墨差し(すみさし)”**だった。
「外壁保つわよ。梶くん、外に誘導して。囲んじゃダメ。ひとつ道だけ作るのよ」
「了解」
梶原の動きは速かった。
幸の機動に合わせて、歪んだ気配を横へと流すように屋敷を離れた小道へ誘導する。
「司郎さん、これ……“時間喰い”?」
「そうね。完全な個体じゃないけど、**“時の死骸”**ってとこかしら」
「そんなの……なぜ、ここに……?」
「……たぶん、あんたがここにいるからよ、あやの。記録者っていう“今の証人”が、時の外であったはずの何かを、呼び寄せたの」
それは、あやのが記録を紡ぐたびに生まれる“選ばれなかった未来”の亡霊――
言うなれば、時間そのものの影だった。
「じゃあ……私が原因……?」
「だからって、責任まで背負う必要はないわよ」
司郎が立ち上がる。
「それを殲滅するのが、あたしたち“家族”ってもんでしょ?」
あやのが、うなずいた。
この家を壊させない。誰一人、失わせない。
玄関が開き、魔界の夜風が流れ込む。
その先に、うごめく黒い塊。
そしてそれに立ち向かう、梶原と幸。
その後ろに、記録者・あやの。
隣には、時間を捨てた建築者・司郎正臣。
「行きましょう、“家族”で」
あやのがそう言った瞬間、墨差しが空に軌跡を描いた。
時間を切り裂くように――夜明け前の闇が、音を立てて崩れ始める。




