第五十章 家のかたち、湯気の匂い
魔界・響空域のはずれ、小さな丘のふもとにある仮住まいの家。
石造りで頑丈な構造をしているが、あやのと司郎が内装を手掛け、梶原がすべての工事を一手に引き受けたこの家は、どこか“人の温もり”に満ちていた。
夕暮れ時。
居間と台所の間には小さな仕切りがあるだけで、湯気と香ばしい香りが部屋いっぱいに広がっている。
「はい、できました」
あやのが持ってきた大皿の上には、ふんわりと湯気を立てる炊き込みご飯、煮魚、茄子とピーマンの味噌炒め、そして胡麻豆腐の小鉢。
味噌汁の香りがやさしく鼻をくすぐる。
「……うわぁ、こりゃまた、本気出してきたわねえ」
司郎が眼鏡をずらしながら呟く。
「精進料理ベース……だけど、完全に魔界素材ね。これ、魚じゃないでしょ?」
「うん、“灰河”の白身。魔界魚だけど、火入れに気をつければクセないよ」
「香りの取り方が絶妙すぎる……ほんと、あんた、料理に関してだけは超一級ね。なんでこれで世界征服しないのかしら」
「征服したいのは胃袋だけでいいの」
「名言だな、それ」
梶原がにやりと笑って、湯呑を持ち上げた。
その足元では、忍犬・**幸**が、きちんと座布団の上で正座していた。
自分用のごはん皿をじっと見つめ、まだかまだかと尻尾が床をぱたぱたと叩いている。
「あ、幸の分もできてるからね」
「……“犬のごはん”って次元じゃないぞこれ」
梶原が覗き込むと、そこには魔界産の肉と野菜を細かく煮込んだ特製のスープ煮ごはん。
「当然。うちの子には、ちゃんと栄養と愛情、両方が必要なの」
あやのが胸を張ると、司郎がそれを見て吹き出した。
「……やだ、完全に“母親”じゃないのよ」
「ちがっ……!」
あやのが真っ赤になりながら抗議する横で、幸は満面の笑みで「いただきます」のポーズをとり、綺麗にお辞儀してからごはんを食べ始めた。
「……梶原、この子ほんとに忍犬?」
「うん。任務で人を無傷で気絶させる技も覚えてる。あと、あやのが一人でいるときはドアの前で寝てる」
「どんだけ過保護なのよあんた」
「心配なんだよ」
素直に言われて、あやのがまた赤くなる。
司郎はそんな二人を見て、湯呑を口にしながら、目を細めた。
「……ああ、こういうのが“家”っていうのね」
ぽつりと呟いたその声に、あやのはふと手を止めた。
「……司郎さん?」
「……あたしね、人間やめたって言ったでしょ。でも、肉体も寿命も捨てた代わりに、あんたとこうしていられるなら、それでいいのよ」
「司郎さん……」
「これからもバカやったら怒るわよ。あたしの娘なんだから」
「うん」
こくりと頷いて、あやのはその目を潤ませた。
梶原はその空気を壊さないように、静かに盃をあける。
「……なら、今夜は祝おう。正式に家族になった祝いだ」
「家族って……! べ、べつにそういうわけじゃ」
「幸もいるし、三人と一匹だな」
「“匹”言うな!」
笑い声と食器の音、そして炊きたてご飯の湯気。
魔界の一隅に、確かに“家”があった。
それは戦いや理論では決して築けない、“時間の外”に流れる小さな幸福だった。




