第二十九章 音で視る建築
旧・蔵前コンサートホールの鍵を開けるのは、これで三度目だった。
今回、あやのはひとりで来たわけではない。司郎、梶原、そして音響の研修生たちと共に、正式な調査として訪れた。
ホールの天井は高く、雨漏りの痕があちこちに浮いている。
床には抜けたタイル、破れたカーペットの継ぎ目。風が抜けるたび、椅子の脚がわずかに軋んだ。
「梶くん、機材搬入オーケー?」
「ああ、もう地下までケーブル通した。記録用マイクも設置済みだ」
梶原は無駄のない動きで脚立を運び、照明機材の微調整に入っていた。
その背中に、確かさがあった。
一方であやのは、中央の演奏ステージに静かに立ち、目を閉じていた。
──聴く、のではない。
──音を、視る。
光もない、音も鳴っていない空間。
それでも彼女の中では、まるで五線譜の上に無数の線が現れるように、音の“痕跡”が立ち上がっていく。
ある残響は天井に跳ね返り、
ある余韻は柱に吸い込まれ、
また別の音は壁を舐めるように移動し、床下で眠っていた。
「ド♯、ソ……ファ♯……この響き、角に溜まってる」
あやのはふらりとステージを降り、右端の客席下に手を添えた。
微かに、空気が震えたように感じた。
「ここ、鳴ってます。過去の拍手がずっと残ってる」
その言葉に、研修生たちは一斉にメモを取り始めた。
司郎は後方から眺めながら、ぽつりとつぶやく。
「建築は物理の塊。でもあの子にとっては、音の化石みたいなもんなのね」
「音の化石……いい言葉です、司郎さん」
あやのはにっこりと笑い、手のひらで空間を“測る”。
その掌の動きは、楽団の指揮者のようでもあった。
すると、ステージ奥の古い照明設備の裏から──
「う、うう……うおぉぉおい、また来たんかお前……」
とつぜん、ひどく低い声が響いた。
「うわっ!? 人影!? なんか出たッス!」
研修生の一人が悲鳴を上げる。
その声とともに、ぽっと暗がりから半透明の人影──
山形さんが登場した。今はもう「出るビル」の名物、エレベーター幽霊である。
「……山形さん?」
あやのがきょとんと声をかけると、その人影は気まずそうにこちらを見て手を振った。
「……ああ、お嬢ちゃんか。ちょっと見に来たんだよ。
ここ、昔よく来てたからな。職場の付き合いで……な?」
「へぇ。山形さんも音楽、好きだったんですね」
「ま、そんときゃ全然興味なかったけどな……今になると……ちょっと懐かしいなって」
あやのはふっと笑った。
「残響、まだ残ってますよ。山形さんの、拍手の音も」
「……そうか。……そうかぁ……」
山形さんは懐かしそうに天井を仰いだまま、ゆっくりと壁の中へ溶けていった。
「……誰だ今の……?」
研修生たちは蒼白だが、司郎と梶原は涼しい顔。
「気にしなくていいの。うちのOBよ」
司郎がさらりと流す。
あやのは立ち止まり、指先で空気をなぞるようにして言った。
「音は、魂と似ています。
触れずとも残り、記憶の奥で生き続けている」
その目には、藍色の中に金の虹彩が、わずかに揺れていた。




