第四十八章 灰の灯りと、真珠の光
「何寝ぼけたこと言ってるのよ。あんた、そもそも初めから人間じゃないのよ?」
その声は、突然だった。
あまりにも自然で、あまりにも懐かしい声。
けれど、この魔界の地で聞くにはあまりにも異質な――
あやのと梶原は、反射的にその声の方を振り向いた。
「……司郎さん!?」
そこに立っていたのは、真珠色の髪を持つ――けれど、紛れもなく見知った男。
建築家・司郎正臣その人だった。
白い煙草の煙と共に現れたかのように、彼はごく当然の顔をして、魔界の空気を吸っていた。
「えっ……? え……っ?」
あやのは、混乱に言葉が追いつかず、ただ疑問符の連なりを口にした。
その隣で、梶原國護の眼は鋭く細められる。
──ここまで接近を許した。気配を殺して、音も風もなかった。
魔界の鬼である自分を欺いてこの距離まで?
だとすれば、これは……紛れもなく「化け物」だ。
けれど、それでも。
司郎正臣の笑みは、あやのがどんなに遠くに行っても変わらない、あの、ふざけていて、でもいつも温かい、それだった。
「お正月様が拾った子供って時点で、人間じゃないのよ、あんたは。まあ、あたしも実際、人間辞めてわかったんだけどね」
ぽん、と自分の胸を叩くようにして司郎は言った。
「お正月様の祝福を受けた者はみんな、“時間の理”から外れた存在になるの。つまり、あんたもそうってこと」
「あ……」
あやのは、何かが脳裏で繋がっていくのを感じた。
司郎が、なぜ消えたのか。
どうして今、魔界に立っているのか。
彼女が怖れていた「一線」を、どうして越えてまで、来てしまったのか。
「人間、辞めたって……どうしてそんなこと……!」
「ただ必要だっただけよ。娘に、会うために」
その一言に、あやのの胸の奥が、強く揺れた。
「……文句言う前に、何かないの? あんた」
司郎が両手を広げた。
まるで、かつての事務所の帰り道で、寒がる彼女を無言で抱き寄せてくれたあの夜のように。
あやのは、もう迷わなかった。
音もなく駆け寄り、彼の胸に飛び込む。
「司郎さん……馬鹿ね……でも、ありがとう」
彼女の瞳から、静かに涙がこぼれた。
抱きしめ返す腕は、あの日と同じ。どこか不器用で、でもすべてを受け止めてくれる温もりだった。
そして、梶原はそんな二人を見ながら、深く一つ、息をついた。
「……どいつもこいつも、勝手な連中だ」
それでも――彼の目には、怒りも嫉妬もなかった。
ただ、大切な者を託せる、かつての“父親”を、受け入れる覚悟がそこにあった。
司郎の胸の中で、あやのはしばらく黙っていた。
けれど、その沈黙を破ったのは、またしても彼の毒舌だった。
「だいたいさあ……無性体から女の体になるなんてこと、自分の意思の力だけでどうにかなるとでも思ってたの?」
あやのは、きょとんと顔を上げた。
司郎は、呆れたように眉をしかめ、唇を吊り上げる。
「ほんっと、そういうとこよね、あんた。おマヌケさん」
「え、え……?」
「いい? “在り方”ってのはね、自分で勝手に選んで作れるもんじゃないのよ。そんなことも分かってなかったの? もう記録者で偉くなっちゃったから、何でも自分で抱えて何でも出来るって思ってたわけ?」
「う……ぐ……」
図星を突かれて、あやのは唇を尖らせた。
けれど司郎は一歩も引かない。むしろ畳み掛ける。
「この世界で何かを変えるってのは、身体の形が変わる以上の代償を払うってことなの。自分の命と引き換えに願うくらいの気概が要るの。それを“いっそ辞めようかな”なんて、気まぐれみたいに呟くんじゃないわよ」
「……でも、私、うまくやれてないもん……」
「あたりまえでしょ。最初から完璧になんかできるわけないじゃない」
それでも――司郎の声は、優しかった。
「うまくやれてないなら、誰かに頼りなさい。梶原でも、あたしでもいい。何のために、あんたのまわりにこんなに馬鹿みたいに愛が集まってると思ってんの?」
その言葉に、あやのは口を結び、ぎゅっと司郎の服の裾を掴む。
「司郎さん……」
「ん?」
「……なんでそんなに優しいの」
司郎はフンと鼻を鳴らした。
「魔界くんだりまで来て、こんなに馬鹿な娘が泣きそうな顔してたら……もう一発殴るか抱きしめるしかないじゃない」
「……馬鹿って言った」
「図星でしょ?」
「……うぅ、やっぱり司郎さんだ」
あやのが、頬を膨らませながらも小さく笑うと、
司郎も、にやりと笑った。
その様子を見ていた梶原は、呆れ顔でぼそりと漏らした。
「……やっぱり、最強の“親”だな。敵わん」
その言葉に、司郎はさりげなくウインクして返した。




