第四十六章 屋上にて、時は問う
──深夜。
東京の片隅に建つ、出るビルの屋上テラス。
一面の暗がりと街の灯のあいだで、司郎正臣は椅子にもたれて空を見ていた。
煙草の煙が、静かに風へと溶けてゆく。
まるで誰かと話すように、彼はぽつりと呟く。
「……あの子は、ちゃんと笑ってるだろうか」
返事などない。
けれど──そのとき、音もなく“気配”が降りた。
「会いたいか?」
声だった。
人のそれに近いが、けして人ではない。
その響きは、獣の喉を這いながら、言葉に姿を与えるような──
悠久を超えて響く“問い”だった。
司郎は椅子から立ち上がり、眉間をわずかに寄せる。
その前に立っていたのは、お正月様。
──毛並みは荒く、白銀にして墨を帯びた四足の獣。
だが、その瞳は人よりも深く、神よりも優しかった。
それは、あやのをこの世界へ連れてきた“神の獣”にして、“時”そのものであった。
「……初めまして。まさか、あたしに用事とはね」
司郎は煙草を指に挟んだまま、かすかに笑う。
お正月様は、静かに首を傾げるように言った。
「会いたいかと、訊いている」
「……ああ。そりゃあ、会いたいわよ。うちの娘だもの。できることなら頭を撫でてやりたいし、馬鹿娘って、抱きしめてやりたいさ」
お正月様の尾が、空気を切った。
「ならば、代償が必要だ。“時の使徒”となり、永劫に名を捨て、人であることを捨てよ。
おまえが今のままで在る限り──記録者となった娘の時の道筋には、二度と触れられぬ」
司郎の手から、煙草が静かに地に落ちる。
「……人をやめろっての?」
「そうだ。“今”という線を超え、“時そのもの”として在れ。それが、おまえが娘に会う唯一の道だ」
しばしの沈黙。
司郎は空を見上げ、目を閉じる。
胸の奥にあるのは、ただ一つの姿──
泣きながら、笑いながら「お父さんだった」と言った、あやのの声。
そして──あの、愛しい頭の重さ。
「……人間でなくなるってのは、思ってるより大したことないかもね。どうせあたしは、ずっと“あの子の父親”でしかなかった。誰の夫でも、親でも、師匠でもない、たったひとつの存在」
「ならば、選べ。今ここで。“永遠の時の使徒”となるか──あるいは、人として、このままここに留まるか」
司郎は、ゆっくりとコートのポケットから、手紙の複写を取り出した。
あやのが送ってくれた、あの文字。
にじんだ跡があるのは、自分の涙のせいだ。
「……そういうの、ずるいわよ。だけど──ずっと前から分かってた気がするのよ。あの子が“向こう側”に行った瞬間から、あたしはもう、人として待ってるだけじゃ済まないってことくらい」
お正月様の目が、わずかに細められる。
「受け入れるか?」
「──いいわ。受け入れる。この命ごと、全部“時”にくれてやる。そのかわり、ちゃんと伝えて。あたしは“あの子を愛している”って。そして、“いつか、もう一度、傍にいたい”って」
獣の神は、深くうなずいた。
次の瞬間、司郎の身体は光に包まれる。
時間の流れが解け、記録にも記憶にも残らない“外側”へと、その存在が引かれていく。
けれど──その顔には、笑みがあった。
静かで、優しく、誇り高い笑みが。
「待ってなさい、馬鹿娘。今度は、時間の果てまで追いかけてやるんだから──」
その声が消える頃、ビルの屋上には、ただ風が吹いていた。
そして、誰も知らぬ場所にて──
“時の使徒”となった司郎が、その使命の刻を踏み出した。




