第四十五章 湯けむりに、記録を忘れて
「……温泉にでも行こうか。ふたりきりで」
そう言ったのは、梶原の方だった。
戦も政も、記録も陰謀も遠ざけて、
ただふたり、肩を並べて湯に浸かるような時間が欲しかった。
あやのは、ぽかんとした顔で数秒、
それからふっと頬を緩めて──
「……うん。いいかも」
向かったのは、魔界と人界のあいだにある古湯郷──
山の奥にひっそりと湧く、昔から妖と人の逢瀬が絶えなかったという隠れ里の湯。
宿は古びていたが手入れが行き届いており、
岩風呂からは紅葉の山が一望できた。
到着してすぐ、あやのは浴衣に着替え、鏡の前で髪を束ねる。
「……うまく結べない」
猫っ毛の真珠髪はつるりと指からすべり、
あやのは苦戦していた。
その背後に、梶原の声が落ちてくる。
「貸せ」
手馴れた手つきで、ゆるやかな結い髪を整えてくれた。
「なにこれ、うまい……」
「現場で結んでやってた。職人の姐さんたちのな」
「なんか……ずるい」
あやのは、鏡越しに笑っていた。
ふたりで並んで入る貸切風呂は、山肌の岩を削った露天。木々の香りと、湯気と、星空。
湯の音だけが響く中、
あやのは肩まで湯に浸かって、ぽつりと呟いた。
「……あったかいね。心までほぐれる気がする」
梶原は黙って頷く。
ふたりの距離は、腕一本ぶんくらい。
けれどその間には、これまでの時間が積もっていた。
「昔、夢みたいなこと言ってたんだ。こんなふうに、誰かと温泉に来られたら、もうそれだけで全部良かったって、思えるんじゃないかって」
「叶ったんだな、その夢」
梶原が低く返す。
「……うん。叶った」
あやのは、静かに微笑んだ。
まるで、記録に刻まれない“幸福の小さな一行”を綴るように。
湯上がり、宿の縁側で夜風に当たりながら、
ふたりは並んで坐る。
黒い忍犬・幸がそっとあやのの膝に顎を乗せ、ぬくもりを添えてくれていた。
月はまあるく、風は静か。
ふたりきりの夜に、必要な言葉は、もうなかった。
ただ、寄り添っているだけでいい。
それが、“記録のない時間”を、最も確かに満たしていた。




