第四十四章 ふたりの記録、これからの事
風の匂いが変わっていた。
魔界の空は、かつてより少しだけ明るく、澄んでいた。
盤の間から戻ったあやのは、梶原と共に遠野の里へ一時帰還していた。
あの家──小さな離れの縁側に並んで座る二人。
梶原は火鉢に湯を沸かしながら、ちらとあやのを見た。
「……疲れたろう」
あやのは首を横に振った。
伸びた真珠の髪が肩越しにふわりと揺れる。
「いいえ、逆に……ほっとしてる」
湯呑みに口をつけながら、あやのはぽつりと続けた。
「でもね、終わってからの方が、怖くなったの」
「何が?」
「“この先”が」
その言葉に、梶原の手が止まる。
「記録者としての使命は果たした。でも、わたしはただの“役割”になりたくない。わたし自身の未来を、自分で選んで、歩きたいの」
あやのは、静かに梶原を見た。
「──梶くんと」
梶原は黙ったまま、湯呑みを置いた。
しばらく、風の音だけが耳を撫でる。
「……あやの。お前は、俺なんかよりずっと先を見てる」
「そんなこと──」
「あるさ。星眼で見えるものだけじゃない。
お前は、世界がどう在るべきかを“考える目”を持ってる。俺はただ、それを見守り、守るしかできない」
あやのは笑って首を振った。
「それで十分。……守られてるって、ちゃんと分かってるから」
そのとき、梶原が言葉を選ぶように、ぽつりと呟いた。
「なぁ……この先、もし“記録者の役目”を降りられたとしたら、お前はどうする?」
あやのは考えるふりをして、すぐに答えた。
「たぶん……畑をやってると思う」
梶原が不意に吹き出した。
「なんだよ、それは」
「だって、静かな場所で、誰かのごはんを作って、
誰かと一緒に過ごすって、幸せだと思うの。
星眼なんていらない。見えないものを信じていい場所なら」
梶原はしばらく黙っていた。
それから、ぽつりと告げた。
「──じゃあ、俺がその“誰か”でいてもいいか?」
あやのは答えなかった。
代わりに、そっと梶原の手に自分の手を重ねた。
それだけで、全てが通じた。
風のなか、幸が庭先から小さく尻尾を振る。
黒い毛並みが光にきらめいていた。
あやのと梶原は、同じ方向を見た。
「ねぇ、梶くん」
「うん?」
「この先の未来を……わたしたちで、記していこうね」
ふたりの影が、暮れゆく縁側に重なっていった。
それは“星眼に映らない未来”──
けれど、きっと美しい記録になると、二人とも信じていた。




