第二十八章 音から始まる図面
重厚な図面台に、白い紙が一枚だけ広げられていた。
その中央に、鉛筆の線がわずかに引かれている。音の波形のように、緩やかな弧を描いていた。
「これは……設計じゃなくて、楽譜だな」
そう言って笑ったのは、澤井教授だった。
仙台にて司郎正臣と真木あやのを東京へ誘った人物である。
彼の視線の先には、あやのが引いた“旋律の記憶”。亡霊の少女が遺した和音の波が、建築の原点として浮かび上がっている。
司郎はその紙を覗き込み、静かに眼鏡を外した。
「この形、どこかで聞いたような音の跳ね方してるわね……」
「ピアノです。蔵前ホールの地下にあった古いアップライト。
まだ誰にも知られていない、音の……残り香、みたいなものです」
あやのは立ったまま、図面台の前に佇んでいた。
その小さな体から、確かな“感覚”だけが溢れていた。
「地下の残響、あれは確かにただのノイズじゃなかったな」
梶原がぼそりと呟いた。
教授はあやのに目を向ける。
「君、何者なんだ。耳が普通じゃない……設計と音、どう結びつける気だ?」
あやのは少しだけ間を置いてから、答えた。
「音のない音を、建築に刻みたいんです。
人の耳ではなく、心が“記憶”するような空間を、つくってみたいんです」
一瞬、部屋が静かになる。
それは会議室というよりも、祈りの空間のようだった。
司郎はスッと図面台の前に出て、あやのの線に、新たな曲線を重ねた。
波形が交差し、そして開き、まるで旋律が空間に昇るように──。
「ならやりましょう。あたしは物理を、あやのは音を。梶原は構造を」
「はい」
梶原は一言だけ答えた。だが、手にはすでにスケッチブックが握られていた。
澤井教授は鼻を鳴らして笑う。
「なんてこった。化け物揃いだ。だが、気に入ったよ。
“音の残る建築”。いいじゃないか。次の講演会で紹介させてもらうよ」
その日、司郎デザインにとって初の正式プロジェクトが動き始めた。
廃墟となったホールに、“聞こえない旋律”を宿す、まったく新しい建築。
その設計コンセプトの仮称は、“Silent Requiem(静寂の鎮魂歌)”。
そしてそれは、やがて世界へと広がる“Tokyo Sound Garden”へと連なる第一歩だった。