第四十章 凍結の刻
──盤の間が揺れていた。
記録の盤に刻まれていた正史の一部が、
“黒い記録”にじわじわと染まり始めていた。
「これは……八重垣さんが言ってた“歪み”」
星眼を通せばわかる。
この記録は、実際には起こらなかった出来事──
魔界王の暴政、近衛の粛清、梶原によるクーデター。
どれも、真実にはなり得なかった幻。
けれど、そこに“あったことにされた記録”が、刻み込まれつつあった。
「このままじゃ、盤そのものが偽史に“上書き”される……!」
あやのは静かに、袖からあの“鍵”を取り出した。
八重垣の虚構の記録界で渡された、
漆黒の欠片──それは記録の外殻に干渉する、唯一の中和装置だった。
「……記録は壊せない。でも、“侵食”は止められる」
星眼が淡く輝き、鍵が盤に反応する。
まるで音を立てるように、盤の表面に“凍結の文様”が浮かび上がった。
その中心に、あやのが静かに語りかける。
「……これは偽り。正史にあらず。
我が眼、我が声、我が記憶において、これを封ず」
次の瞬間──
盤から“黒い記録”が浮き上がった。
触れる者が見れば錯乱するような、ねじれた言葉、歪んだ出来事。
だがあやのは、それを見つめ、微笑んだ。
「ありがとう。あなたたちも、“見られたかった”んだよね。でも……もう、ここにはいられない」
小さく、“氷の鈴”のような音が鳴る。
八重垣の鍵が回転し、盤の上に走る文様が氷結しはじめる。
黒い記録は、声もなく凍り、盤の中に封じ込められた。
“永久に開かぬ扉”として。
──静寂。
あやのは額の汗を拭い、息をついた。
盤は静かに、もとの正史へと姿を戻していた。
だが、その片隅には、今しがた封じた“偽史の氷印”が淡く光っていた。
それは、記録者が“記さない選択をした”という、もうひとつの記録だった。
背後に、梶原がゆっくりと現れる。
「……やったのか」
あやのはうなずき、手のひらをそっと見せた。
そこには、ほんの小さな傷──
“鍵を使った者の代償”としての刻印が残っていた。
「少し、冷たいね。あの記録たち……誰にも知られずに消えるのは、寂しいだろうな」
梶原は、そんなあやのを黙って抱きしめた。
「お前は、ちゃんと“見て”やったんだ。だから、あいつらもきっと安らぐ」
星眼が、再び淡く光った。
それは「正しい記録を守った」という、静かな証明だった──




