第三十九章 虚ろの記録界
──音が消えた。
気づけば、あやのは盤の間ではなく、どこか見知らぬ場所にいた。
大地は白く、空は限りなく深い藍。
星々が盤面のようにきらめき、風もない。すべてが静止していた。
まるで記録の中に足を踏み入れたような錯覚。
だが、それは錯覚ではなかった。
「ここは……私の星眼が記憶した、世界の“裏側”?」
と──彼方から足音がした。
ゆっくりと、白い装束に身を包んだ少女が現れる。
年の頃はあやのと同じくらい。
けれどその目には、歳月とは無縁の“記録の重み”が宿っていた。
「八重垣……さん?」
少女──八重垣は頷く。
彼女の星眼もまた、金と藍の光を宿しながら、しかしあやのとは違う“冷たさ”をたたえていた。
「ようこそ、“虚構の記録界”へ。
ここは記されたことのない未来と、望まれなかった過去が漂う場所」
あやのは、星眼で周囲を視た。
──虚構とはいえ、世界は確かに“構築されていた”。
草も、空気も、風景も、すべてが“記録されなかった真実”を元に作られている。
「これが、あなたの記録したかった世界?」
八重垣は首を横に振った。
「違う。これは、“記したくなかった世界”を閉じ込めた檻。私が記録者だった頃、見たもののすべて。終焉、裏切り、滅び──そして記録が生んだ災厄」
あやのは眉をひそめた。
「……だから、それを見せるために、私をここへ?」
「いいえ。あなたに“問う”ために、招いたの。
星眼を持つ者として──あなたは、すべてを記し続ける覚悟があるの?」
周囲の風景が歪む。
燃え上がる街。
嘆き叫ぶ声。
裂けた空。
死を記録することすら赦されなかった未来が、重く垂れ込める。
「私も、かつてそうだった。美しいものだけを記録し、未来に遺したかった。けれど、“記録とは慈しみではない”と知った。だから私は記すのをやめた。そして、この虚構の中に閉じこもったの」
あやのは、目を逸らさずに言った。
「……私は、それでも記します。終わりがあっても、失われても。記録は、希望を残す手段だって信じてるから」
八重垣は、しばらく黙っていた。
その静けさはやがて──尊い沈黙に変わる。
「あなたは、私と違って、“誰かのために記してる”のね」
「……はい。司郎さんや、梶くんや、幸や──この世界で生きている人たちのために」
八重垣は、微かに笑った。
それは記録者が失った、ただの少女の微笑みだった。
「なら、これを持って」
八重垣は手を差し出し、小さな欠片のような盤を渡す。
それは、虚構の記録の“鍵”。
「この先、あなたが記した正史に“喰い破ろうとする歪み”が現れたとき、この鍵を使って、“虚構の記録”を鎮めなさい。私はまだ……この檻に残るわ。記録者の責任として」
あやのはそれを両手で受け取った。
「……あなたの記録も、いつか救われますように」
そして──
世界が白く染まり、星眼の光と共に、あやのは現実へと戻っていった。
掌に残る、小さな黒い盤のかけら。
それは「記す者」と「記すことを拒んだ者」の、静かな交差の証だった──




