第三十五章 記録を喰らう者たち
「……ここに、俺を差し向けたのは誰だ?」
黒篠 薙が、問いかけていた。
まだ完治していない肩に手を当てながら、魔界の裏山にある廃れた神殿のような建物の前に立っている。
空気は冷たく、土は乾いていた。
彼を待っていたのは、複数の影。
どれも顔を覆い、名乗りもせず、しかしただならぬ気配を纏っていた。
「……失敗だったのか?」
影の一人が静かに問うた。
「俺の“敗北”が必要だったのか? それとも──」
黒篠の声に、最も奥に立つ一人が答える。
「敗北ではない。記録の“揺らぎ”こそが必要だったのだ」
それは、男とも女ともつかぬ声。
どこか機械的で、魔の気配すら希薄に思えるほど冷ややかだった。
「記録者・真木あやのの星眼が“記し始めた”その瞬間から、未来はひとつではなくなった。それは──我々にとって、分岐への兆しとなる」
「……分岐?」
「彼女が記す未来は、善ではない。正しさですらない。それは“彼女の見る世界”にすぎない。ならば──別の記録を、我らが刻むまで」
黒篠の目が細められる。
「まさか、お前たち……“偽史”を造る気か」
「その通り」
静かに頷いた影は、手に一枚の黒い盤を掲げた。
あやのが継承した“記録の盤”とは異なる、それは歪んだ盤。記録ではなく、改ざんを刻むための、“写し”だった。
「この世界は、“記録されない限り存在しない”。
だからこそ、我らが望む“未来”を記せば、それが現実となる。たとえそれが、“虚構”であっても──」
黒篠は沈黙した。
彼の戦いすら、この勢力の“脚本”の一部にされたことを悟った。
「……なら、俺を殺すべきだったな」
影の一人が手を伸ばしかける。
が、最奥の者が止める。
「いや。お前の怒りも、悔いも、まだ利用価値がある。我々は、決してお前を“信じていた”のではない。
お前は“記録を乱す歯車”──それだけのこと」
黒篠はその場に剣を突き立てた。
「そうか。なら俺は──ここで終わらせる。俺自身を」
彼は、剣の柄に手をかけた。
──その時、空が裂けた。
真っ黒な犬が、地の霧の中を駆け抜けてくる。
忍犬・**幸**だった。
そしてその背に跳び降りたのは、梶原。
剣を抜きざま、黒篠の前に滑り込む。
「やっぱり、お前の背後に何かいたな……!」
幸が唸る。影の者たちは音もなく霧に消えていく。
だが、黒い盤の残像だけが、空間に不気味な余韻を残した。
梶原は黒篠を見た。
敵ではない。だが、もはや味方とも呼べなかった。
「お前は、どうする……黒篠」
「“未来”を記すというのなら、せめてその裏にある“影”も記してみせろ。それができるなら──あやのは、きっと本物だ」
黒篠は自ら剣を地に突き刺し、そして振り返らずに去っていった。
その夜、あやのの盤に変調が走った。
記録されたはずの“未来の一部”が、微かに消失していた。
それは、「誰かが虚構を刻みはじめている」ことを、静かに示していた──




