第三十三章 影より還る者
静かな夜の風が、あやのの屋敷を撫でていた。
梶原はその縁側に座り、黙って夜を見ていた。
記録者を狙う動きはひとまず退いた。
あやのが書いた未来によって、多くが剣を引いた。
──だが、それでも。
「全員が納得したわけじゃない」
それが、梶原が気を抜かない理由だった。
そのときだった。
「……久しいな、“鬼の将”。」
低く、乾いた声が闇から降ってきた。
梶原がすぐに立ち上がる。
その眼光はすでに戦場のそれだった。
「……黒篠」
現れたのは、漆黒の羽織に身を包んだ長身の男。
片目を失い、左腕は肩から義肢。
それでも背筋は伸び、ただの敗残者ではない雰囲気を纏っていた。
──黒篠 薙。
かつて、梶原と共に魔界西域を支えた元将軍。
だが、主君への謀反により一族諸共処刑されるはずだった男。
生きていた。
そして、今、梶原の前に現れた。
「王もいなくなった。空位の玉座に、記録者……だと?
人の娘に世界を記させる? 笑わせるな。──お前は、なぜあの者を護る?」
「俺の女だからだ」
即答だった。
梶原はまるで歯を食いしばるように答えた。
「記録者だからじゃない。俺は、あやのという“人”を護ると決めたんだ。お前がどう喚こうと、関係ない」
「……変わらぬな、梶原國護。愚直にして、忠実。
ならば俺も変わらぬ。“強き者が未来を導く”と信じるまで」
黒篠が、黒い鞘から刃を引き抜いた。
それは儀式用ではない、戦の剣だった。
梶原も応じるように、背中の刀を解いた。
その刀は、かつて西域の将たちにだけ許された“結界抜刀”。
「望むところだ。ここは、あやのに見せる戦じゃない。──これは、お前と俺の決着だ」
二人の間に風が走る。
刃と刃が、まだ交わっていないのに火花を散らしていた。
「この剣は、記録者のためのもの。だが今だけ、お前に向ける」
「上等。──俺の憎しみが、まだ鈍っていないと知れ」
──夜の魔界に、剣戟の音が走った。
誰も知らぬ裏側で。
記録者が戦を鎮めたその夜、
記録されぬ戦いが、ひっそりと始まっていた。




