第三十二章 先の先へ
「──動いたか」
静かな声で、あやのは呟いた。
記録の盤が、夜明け前の薄明にほのかに脈打っている。
その輝きは、まるで彼女の鼓動と共鳴しているかのようだった。
星眼が淡く光を放つ。
数刻前──
未来の幻視にて、彼女は確かに見た。
剣を抜く者たち。
火の手を上げる若い将家の者たち。
そして、混乱に乗じて「空の玉座を簒奪しようとする者」。
けれどそれは、まだ“確定”された未来ではなかった。
あやのは唇を引き結んだ。
「戦わせない。争いが起きる前に、動く」
彼女はまず、王が退いた後も沈黙を保っていた三家へ、密書を送った。
それぞれの家に伝わる“封じられた過去の記録”について問うたのだ。
その書面には、王から継承された「記録者の印」とともに、こう記されていた。
『我、記録者・真木あやの。
未来を記すために、あなた方の“過去”を確認したい。
忘れられた真実は、争いの火種となります。
ならばその記憶を、今ここに解きましょう』
これは脅しではない。
だが、もし隠された“罪”があるなら──暴かれることになる。
三家の動きは、鈍った。
「……まさか、人の娘がここまで動くとはな」
「王が記録者に渡したのは、“剣”ではなく“刃のついた羽根筆”だったか」
次にあやのは、祭官の庁に出向いた。
そこには古くから、魔界の“予兆”を司る巫たちが仕えていた。
彼女はそこで、「盤が見せた未来の幻視」を公的に報告した。
そして、盤に記された“まだ起きていない戦”の兆しを記録として正式に保存させた。
「この記録は、すでに歴史に刻まれました。
ここに名を連ねた者が、未来に実際の戦を起こせば──
その名は、“記録者を裏切った者”として千年、語り継がれます」
それは抑止力となった。
誰も、未来に“名を刻まれる恥”を望みはしない。
梶原はあやののすべての行動に付き従い、
その身辺に一歩たりとも近づくことを許さなかった。
“剣”が前に出れば、争いは過熱する。
だが、背後にいるからこそ、抑止となる。
梶原は、あやのが声をあげるたび、黙してその手を支えた。
そして、決定打となったのは──
一枚の「未来記録の写し」。
あやのが星眼で幻視した“戦の未来”を、盤に記録し、魔界議政庁の全代表に渡したのだ。
「これは、まだ“起きていない記録”です。
でも、これを皆が目にすれば──“その未来は記された”ことになる」
記された未来は“避けられる”。
だが、誰かが本当に剣を抜けば──それは“記録された未来をなぞる者”として、自らを縛ることになる。
「あなたたちの選択が、未来を変えます」
その言葉は、静かに魔界全土を揺るがせた。
そして──
「……戦、回避を。全会一致」
ある長老が、そう言って印を押した。
一人が動けば、続く者もいた。
ついに、火種は“記録の力”によって鎮められた。
その夜、あやのは梶原と静かに屋敷の縁側に並んで座っていた。
「戦わずに済んだね」
「……戦だったさ。見えないだけでな」
梶原は、あやのの手を取った。
その手には、書きすぎて赤くなった指先。
そして、震えていた。
「怖かった?」
「……すごく。でも、逃げなくてよかった」
そのとき、遠くの空に魔界では稀な“夜鳥”の群れが舞った。それは、封じられていた風が、ゆっくりと動き始めた証だった。
未来は、変えられる。
記録は、ただ綴るだけじゃない。
――選ばせる力がある。
あやのは、そう信じて、そっと目を閉じた。




