第二十七章 静かなる鍵盤
再びホールを訪れたのは、平日の夕暮れだった。
調査の日から数日。あやのは一人、地下室の鍵をこじ開け、壊れたピアノの前に座っていた。
外では雨が降っていた。
天窓から漏れる淡い光が、ホコリを金の粒のように浮かび上がらせる。
──ひとりでに、低音の弦が鳴る。
ピアノの蓋は閉じたままなのに、かすかに“響き”が空気を揺らした。
あやのはそっと、鍵盤に指を添えた。押しても音は出ない。
けれどその奥に、澄んだ“感情の残りかす”が、かすかに残っていた。
音にならない音。
それは、ひとのため息よりも静かな“さよなら”だった。
「……ひとりで、ここにいたんですね」
囁くように、あやのが言った。
すると──ピアノの上蓋に、そっと人影が浮かぶ。
白いワンピースの少女。長い髪を後ろでひとつに結い、素足のまま、あやのの隣に座る。
言葉は交わせない。
けれど、少女はピアノに触れた。誰にも聞こえない音を、鳴らそうとするように。
「お名前は、聞けないんですね」
少女はうつむき、指を止めた。
──そのとき、あやのの胸に、不意に“和音”が届いた。
少女が遺した、最後の演奏。
高音から低音へ、落ちてゆく旋律。さよならを告げるための最後のフレーズ。
あやのは、そっと瞼を閉じた。
「……ド、ミ、ソ……ソ♯、ラ……ファ。
それ、雨の曲ですね。たぶん、あなたの……」
少女は、小さくうなずいた。
その表情は、もう“この世”のものではなかった。
長いあいだ、誰にも気づかれず、音を届けることもできず、ここに残っていた。
音楽を愛し、そして音楽に置いて行かれた、ひとつの魂。
あやのはポケットから、古びたメトロノームを取り出した。
先日、ホールの倉庫で見つけたもの。ネジを巻くと、まだ動いた。
──カチ、カチ、カチ。
少女が、ゆっくりと顔を上げる。
涙はなかった。ただ、微笑んでいた。
そして──そのまま、ピアノの影とともに、ふっと消えた。
鍵盤の上に、小さな銀のヘアピンが落ちていた。
かつて少女が髪を留めていたものだろう。
あやのはそれを拾い上げ、胸元にそっとしまう。
「大丈夫。あなたの音は、残ります。いまから、もう一度、ここに響かせますから」
外の雨は止んでいた。
蔵前の空に、わずかに夕陽が射し込む。
あやのの頬に光が差し、真珠色の髪が揺れた。
その日から、ホールの地下室では不思議と鍵盤の“軋み”が減った。
音の亡霊は、ようやく安らぎを得たのだった。