第二十九章 沈黙の玉座
魔界の暁。
地がまだ黒く、空もなお眠る刻。
それは“王が王でなくなる”ための儀式に、ふさわしい始まりだった。
【深殿】
王城のさらに奥、空を封じるほどの巨大なドームの中。
王だけが立ち入るはずのその場所に、
今はただ一つの祭壇が据えられ、千の灯火が天蓋に浮かんでいた。
集まったのは、魔界の重臣たちと各地を治める家筋の代表。
そして――記録継承者、真木あやの。
彼女の傍には、鬼の将・梶原國護が付き添うように立っていた。
その姿はもはや、誰も“異邦の者”と呼ばなかった。
数日前の「黒門会議」以来、あやのは正式に“記録の守人”として迎え入れられていた。
厳粛な沈黙の中、王が姿を現す。
黒金の外套を脱ぎ、
ただの老いた男の姿で現れたその姿には、
重みと、深い美しさがあった。
「我は、千年の記憶を携えて此処に立つ者。されど、これより先は……記憶を託す者ではあっても、支配を成す者にはあらず」
その言葉を合図に、巫女たちが【継承の盤】を中央へ運び出す。
盤には、あやのが王から受け取った“記録の鍵”が静かに置かれた。
王があやのの前に進み出て、問いかける。
「記録者よ。問う。お前は、見たもの、触れたもの、託されたものを歪めることなく記す覚悟があるか?」
あやのは一礼し、
星眼をわずかに輝かせながら応える。
「はい。わたしは、“生きた記録”として、真実のままに魔界を綴ります」
王は深くうなずいた。
「……ならば、我が務めは終わる。この玉座を空としよう」
その言葉とともに、王は階段を一段ずつ降りていく。
王冠を外し、それを封の箱に納め、最後に、玉座の前で膝をついた。
誰も声を上げない。
この沈黙こそが、王への最大の敬意だった。
そして、最後の言葉が──王の口から発せられた。
「我が名はここに尽き、記録の中にのみ在る。この地を守るのは、玉座ではなく、記録と、祈りと、意志だ。……願わくば、未来よ。どうか生きよ」
その瞬間、【継承の盤】が淡く光り出す。
光が玉座を包み、やがてそれを透明に変えていく。
まるで、“誰も座ってはいけない椅子”として封じるかのように。
やがて光は収まり、祭壇の中心に残されたのは、
空の玉座。
──そこに誰も座らぬまま、魔界は新たな時代へと移行した。
深殿の空気が変わる。
緊張ではない、安堵でもない。ただ静かに、新たな時間が始まったのだと誰もが感じていた。
あやのは、手の中にある鍵を見つめた。
その重みが、今ようやく現実のものとして胸に落ちてくる。
傍らの梶原が、その肩に手を置いた。
「あとは、お前の番だ」
そう言ったその声には、王の退位を見届けた者としての敬意と、新たな時代における“護り人”としての覚悟が込められていた。
そのとき、深殿の外に風が吹いた。
魔界には珍しい、柔らかな風だった。
まるで、老いた王の魂が
静かに空へと還っていったような──




