第二十五章 綻びの兆し
王が「あやのにだけ」退位の意志を伝えてから数日後――
魔界の空気は、どこか落ち着かないざわめきを帯びていた。
王城の一角、政務殿の奥にて。
古参の鬼たちが集まる密会が開かれていた。
灯の数を絞った会議室。
その中心で、白髪の鬼が口を開く。
「王が、玉座を降りるおつもりだと……?」
「確定ではない。だが、王近衛のひとりが密かに儀式室の設えを変えさせた。“継承の間”だ。王があそこを再封印から解いたとなれば……」
ざわつきが広がる。
怒りというより、動揺と不安が満ちていた。
「まだ“次代”も決まっておらぬというのに……」
「いや、それより問題は──」
声を潜めるように、別の鬼が言った。
「“記録の継承者”が、人間だということだ」
その瞬間、空気が凍る。
「あやの殿のことか?」
「……あの娘が王に近いのは、皆知っている。だが、だからといって魔界の記録を外種に託すなど、前代未聞だ」
反発の本質はそこにあった。
あやのが「異邦の者」であり、しかも“星眼”という強力な異能を持つがゆえに、「記録者」であることすら警戒の対象になっているのだ。
その夜、
ひとつの密命が動き出す。
「……あの娘に、接触してもらおう。忠義ある者を、礼をもって送り、内心を探る。……必要なら、“記録”を凍結させる術も講じるべきだ」
一方その頃──
あやのは、梶原とともに魔界の図書院にいた。
王の過去を記した古文書の断片を整理しながら、
王が遺そうとしている“記録の核”に手をかけていた。
梶原は黙々とその横で資料を読み、必要に応じて言葉を添える。
「……王様の記憶、あれで全部じゃなかったんだね。
もっと深いものが、まだ残ってる。言葉にも音にもならないものが……」
あやのの星眼は、過去を記録するごとに「沈黙の重さ」を学びつつあった。
その静かな時間に、不意の訪問者が現れる。
館の外に、魔界衛士の一団が立っていた。
その中心にいたのは──
漆黒の外套を纏った、異様に痩せた中年の鬼。
「お初にお目にかかります。記録継承者殿。王より仰せつかり、あなた様の“記録の正統性”を確認に参りました」
その声は柔らかく、しかし何かを計っているようだった。
梶原が即座にあやのの前へ出た。
「誰の差し金だ」
「……いずれ分かります。ただ、我々は王の意志を疑っているのではない。
“王の背後にいる者”の動向が、真なる魔界の秩序にとってどうか──それを憂いているだけです」
あやのは一歩前へ出て言った。
「あなたは、わたしを試しに来たんですか?」
「いえ。ただ──あなたが“何を見て、何を記そうとしているか”を知りに来たのです」
その言葉には、
あやの自身も気づかぬほど深く、王の退位が“波紋”となって広がり始めていることを思わせた。
そしてこの一件が、
魔界を揺るがす“次の動き”の序章であることを──
彼女はまだ知らなかった。




