第二十四章 玉座の無い王
王の私室は、魔界のどこよりも静かだった。
外からの光も遮られ、蝋燭の炎すら小さい。
広間にひとり、王は長椅子に座っていた。
剣も、玉座もない。
その背中には、静かな疲れがにじんでいた。
あやのが呼ばれたのは、日が沈んだすぐ後だった。
ほかの誰にも告げず、使いも出さず──
ただ“来てほしい”という言葉だけで、彼女はそこにいた。
王は振り返らなかった。
ただ、語りかける。
「お前の目に、私はまだ“王”に見えるか?」
あやのは少し考えて、そっと答えた。
「はい。けれど……それだけじゃない。
わたしには、王様が“ひとりの男”に見えます。
過去を愛し、未来を託そうとしている──優しいひとです」
王は、ふっと笑った。
「優しいか……。そう言われたのは、何百年ぶりだろうな」
やがてゆっくりと立ち上がり、
歩み寄る。
その足取りは年老いたもののそれだったが、威厳は失われていない。
「私は、王を降りようと思う」
あやのは、一瞬息をのんだ。
だが、何かを感じていたのだろう。
動揺よりも、静かな驚きが先に来た。
「……決めたんですね」
「ああ。
もう、私が治める理由はない。
戦の時代も終わり、秩序はお前たち若き者に移りはじめている。
そして何より……“記憶”は、すべてお前に託した」
王は、あやのの瞳をまっすぐ見つめる。
「星眼は、過去を記録するだけの眼ではない。
選ぶのだ。“これからの世界に、何を遺すか”を。
……だから、私はお前を信じる。
私が忘れてきたものを、お前が覚えていてくれる限り──
私は、もうこの玉座にしがみつかずに済む」
あやのは、胸に手を当てた。
「王様……それは……」
「皆にはまだ言わぬ。
これは、お前にだけ告げる“準備”だ。
正式な儀式は、しかるべき時に行う」
沈黙。
長い時の中で王が積み上げてきたものが、
この一瞬で音もなく崩れるような、厳かさがあった。
「……私が治めたのは、魔族という名の“記憶”だった。
数千年の記録を背負い、語る者がいなければ、すべては風に消えていく。
だから私は王でありつづけた」
「……そして、今はわたしが“記録者”になった」
「その通りだ」
王はうなずいた。
「私は、王として生きた。
だが、お前には“王になれ”とは言わぬ。
その眼のまま、ただ残せ。すべてを。愛も、失敗も、赦しも。
それが、私の願いだ」
ふいに王は、あやのの手を取った。
その掌は、まるで父のように温かかった。
「ありがとう、あやの」
それは、魔界の王が口にした、もっとも個人的な感謝の言葉だった。
──この夜、あやのはひとつの“時代の終わり”を知った。
そして、自分の中にひとつの“使命の始まり”を受け取った。
魔界は、今また静かに姿を変えようとしていた。




