第二十三章 忘れられた旋律
部屋の片隅に置かれた古い机の上。
小さな木箱のふたを開けると、壊れたオルゴールの機構が、かすかに光を返した。
錆びついた軸。折れた歯車。
触れれば壊れてしまいそうなほど脆い。
だが──
「音は、まだ眠ってる」
そう言ったのはあやのだった。
傍らにいた梶原は、黙ってその機構を手に取り、目を細めた。
「見たことのない型だ。……でも、直せる。時間はかかるがな」
「ありがとう。わたし……この音を聴かなくちゃいけないの。たとえ誰かの恋の記憶でも、それが終わってしまったものでも」
あやのの目は、星眼ではなかった。
ただの少女の、真剣なまなざしだった。
梶原はうなずいた。
「分かった。じゃあ、お前はそっちを頼む。俺は“音の骨”をつくり直す」
数日後。
修復は、思ったより早く完了した。
幸がぴたりと横に付き、誰にも邪魔させないように控えていた。
そっとゼンマイを巻くと、
壊れていた歯車が──ほんの一瞬だけ──回った。
♪……
最初に聴こえたのは、音ではなかった。
空気の震えだった。
それが次第に、ひとつの和音へ変わっていく。
低く、細く、切なげな旋律。
音階は奇妙だった。人の音楽ではない。
だが、明らかに“誰かの祈り”が宿っていた。
──その瞬間、あやのの星眼が反応した。
視界が一変する。
白い回廊。
ひらひらと風に揺れる衣。
長い黒髪に、淡く笑う女。
(あ……)
王がかつて愛した、“姫”がそこにいた。
彼女は、オルゴールを抱えて、ひとりで旋律を紡いでいた。
「……この音を、あなたが聞ける日が来ますように。
あなたがまだ“剣”じゃなく、“手”だった頃のことを、忘れないでいてほしいから……」
優しく微笑みながら、彼女は風の中へ消えていった。
それが、**彼女の最後の“記録”**だった。
あやのは涙をこぼしながら、
その音を、星眼に焼き付ける。
「……愛していたんだね。王様」
言葉は、誰に向けたわけでもない。
ただ、記録者として。
過去に確かに“在った”ものを、受け止める者として。
背後から、そっと梶原が羽織をかけた。
「震えてる。……無理をするな」
「大丈夫。……でも、すごく綺麗な音だった。
誰かの最後の、願いだった」
その夜、
あやのはオルゴールと共に王のもとを訪れた。
彼女は無言で機構を差し出し、
王の前で、ゆっくりとゼンマイを巻いた。
流れ出す旋律。
あの音。
王は、何も言わなかった。
ただ、音が止むまで、まぶたを閉じていた。
終わったとき、
ひとすじの涙が、王の頬を伝っていた。
そして、ひとことだけ。
「ありがとう」
その言葉には、
愛と悔いと、そして別れがすべて宿っていた。
──こうして、王の最後の“個の記憶”が、星眼に記された。
あやのはもう、ただの観察者ではなかった。
記録者であり、証人であり、王の“人生の片割れ”を受け継ぐ者となったのだ。




