第二十二章 記録者の誓い
城の高台に、ひときわ静かな石庭があった。
その中央で、王は背を向けて立っていた。
眼下に広がる魔界の夕景。深い朱の空に、遠く龍のような影が飛び、低く風が鳴く。
その背に、あやのは静かに歩み寄った。
足音は石を踏むたびに、やさしく乾いた響きを立てた。それでも王は振り返らない。
まるで、来ることを知っていたかのように。
「見たのだな、記憶を」
王の問いは、穏やかだった。
怒りも、動揺も、そこにはなかった。
ただ、あやのの返答を静かに待つ声だった。
あやのは小さくうなずいた。
「はい……見ました。誰にも渡さなかった記憶を、わたしの星眼が、勝手に……」
「“視た”のではない。お前が“受け取った”のだ」
王がゆっくりと振り返った。
その顔は、あやのが初めて見たときと同じだった。
歳老いた鬼の顔。だがどこか、ひとりの父親のような優しさを湛えていた。
「お前に見せたかった。けれど見せてはならぬと思っていた。……だから、私の方からも逃げていたのだ。だが、星眼は逃げない。見るべきものを、見逃さない。それが“最強の魔眼”と呼ばれる所以よ」
あやのは、静かに手を握った。
指先に残る、あの夢の中で感じた温度が離れない。
「記録します。わたしが。この目が見たもの、あなたの痛み、愛、そして……未来のために遺そうとしたすべてを」
その言葉に、王の瞳が微かに揺れた。
「覚悟はあるか。星眼は“記録したことを忘れられぬ”魔眼だ。お前は、永久に“私の過去”を抱くことになる」
あやのは、うなずいた。
「それでも、記します。……わたしは、忘れたくないんです。誰かが生きて、愛して、選んだこと。その痕跡を、ただ“あったこと”として見届けたい」
風がふと吹き、あやのの髪が舞う。
長く伸びた真珠色の髪が、夕陽にきらめき、王の目に映る。
その姿は――
かつて彼が愛した“姫”の背にも、どこか重なって見えた。
だが、違う。
この少女は、ただ“似ている”のではない。
彼女自身の意志で、“見る”のではなく“残す”ことを選んだ者だった。
「……それでこそ、お前に託した甲斐がある」
王はゆっくりと歩み寄り、
懐から取り出したひとつの細工箱をあやのに差し出した。
「これを託す。姫が残した唯一の遺品だ。文字でもなく、言葉でもない。だが、意味を持つ“音”が入っている。私には聞き取れなかった。だが、お前なら……」
あやのは、それを両手で受け取った。
小さな木箱。
装飾も華やかではない。
だが、明らかに“人の手”によって、丁寧に作られたものだった。
蓋を開けると、
そこには一片のオルゴールの機構と、壊れた歯車が入っていた。
「これ……」
「壊れているが、“音”は消えていない。私はずっと、この音が聞けぬまま、王として生きてきた。だが今こそ、その音を“誰かの言葉”として、聞き取ってもらいたい」
あやのは、その箱を胸に抱き締めた。
「わたしに、聞かせてください。……この国が始まった時の音を。あなたが、忘れたかった記憶の音を。そして……誰にも届かなかった声を」
王は、何も言わず、ただ深く一礼を返した。
老いた鬼が、若き少女に頭を垂れた。
それは臣下への命ではなく、一人の記憶の継承者に向けた、祈りのような礼だった。
こうしてあやのは、“王の記録”を引き受ける者として、魔界にその名を刻み始めた。
星眼が、過去を視るだけではなく、“繋ぐ”ための目になった瞬間だった。




