第二十六章 音の迷宮へ
土曜日の午前、あやのはトートバッグを肩にかけて、「出るビル」の前で待っていた。
春の風がまだ冷たく、金の虹彩を隠す藍色の瞳が小さく揺れる。
「遅いです、司郎さん」
「……すまん。カメラと水平器忘れてたわ。老いって怖いわね」
「おれは、準備できてる」
梶原は無言でキャリーバッグを引きずり、コンビニで買ったおにぎりと缶コーヒーを手にしていた。
行き先は、台東区・蔵前。
かつて江戸文化が交差し、今は観光地と住宅街が混じる地域だ。
地下鉄を乗り継ぎ、ホールの最寄り駅に着いたのは昼過ぎだった。
古びた地図を片手に、あやのが立ち止まる。
「……この辺りのはずです」
路地に入ると、突然、空気が変わった。
人通りがほとんどなく、どこか薄暗い。昭和の香りが強く残る通りの奥に、それはひっそりと佇んでいた。
──旧・蔵前コンサートホール。
赤茶けたレンガの外壁。蔦が絡み、バルコニーには崩れかけた欄干。
だが、ファサードの一部には繊細な装飾が残っていた。今にも楽の音が聴こえてきそうな、曲線の彫刻。
「……保存状態、最悪だけど、骨格は美しいわね。生きてる」
司郎は図面を取り出しながらつぶやいた。
「中、入ってみよう」
梶原がドアを押すと、錆びた蝶番が鈍く軋んだ。
内部は薄暗く、ホコリの匂いが満ちている。
あやのは、一歩を踏み出すたび、足元の音に耳を澄ませた。
軋む床、揺れる天井。照明のない空間に、わずかな風の音が混じる。
──カタ。
どこかで、何かが動いた。
「……感じますか?」
「うん。いるわね。……たぶん、複数」
天井近くの梁に、ひょっこりと顔を出したものがいた。
白いワンピースの女の子。こちらに手を振って、消える。
「……ああ、音の幽霊ってやつね。楽器に憑くこともあるけど、ここは“残響”に憑いてるわ。音の痕跡が、霊を留めてる」
「おれ……録音してみる」
梶原はスマホのボイスレコーダーを起動し、会場中央で静かに耳を澄ませた。
……しん、とした沈黙。
と思ったそのとき──
『ド…ファ…シィ…』
空気の裂け目から、かすかに音階が聴こえた。
人の声ではない。風でもない。
それは、壁に残った音の“影”だった。
あやのの瞳が淡く光る。
瞳が、封印の奥でわずかに脈打つ。
「……ここ、壊さない方がいいです。音が、まだ生きてます」
司郎が、沈黙のまま頷いた。
彼の中にも、建築家としての直感があった。物が持つ記憶。それが、空間に残っているのだ。
「じゃあ、保存活用型の再生計画にしよう。既存構造は極力活かして、音の“抜け”を逆手に取る。ここは──音が集まる“ホール”なんだよ」
梶原が、廊下の方を指差した。
「こっち、地下ある。鍵、壊れてるけど……行ける」
地下。
湿った空気。
かつて楽器倉庫だったそのフロアには、壊れたピアノが一台置かれていた。
あやのが、そっと近づく。
指を鍵盤に添える。音は出ない。だが、確かに“振動”があった。
「……泣いてる。誰かが、ずっと弾けなかったピアノ……この子、誰か待ってる」
その日、調査は静かに終わった。
夕暮れ、ビルに戻った三人の背には、ただの図面以上の“気配”が宿っていた。