第二十一章 封印の記憶
石板にふれたわけではなかった。
あやのはその夜、ただ静かに眠っていただけだった。
けれど――
それは夢という形でやってきた。
暗い、無音の空間。
灯もなく、風もなく、言葉すら許されない世界の底。
その中心に、王がひとり座っていた。
まだ若かった。
背筋はまっすぐで、瞳の色も深紅ではなく、血潮を宿したような赤。玉座などなく、彼はただ一人の「兵」として、誰かを見下ろしていた。
「もう、やめて……」
それは、かすれた女の声だった。
王の足元には、倒れ伏す人間の女がいた。
白い肌に裂けた袖。
黒い髪が土にまみれ、まぶたの奥に、命の炎が揺れていた。
「やめて。お願い……私は、あなたが殺してきた誰とも、違う……」
若き王は、刀を抜いていた。
手は震えていた。
だがその震えは、怒りでも恐怖でもなく――葛藤だった。
(……この人、王様が……)
あやのの意識が、夢のなかでつぶやいたとき。
その光景が一変する。
場面が切り替わる。
炎の中。崩れた城。
崩れ落ちる石段の先で、あの女が王を見上げていた。
「あなたは、私を殺すことで、鬼を守ろうとした……
でも私は、あなたに殺されたかったんじゃない。
……あなたのために、生きたかっただけ」
その瞬間、王が初めて顔を歪めた。
手にした刀を、砕いたのだ。
がらん――という音が、やけに重く響く。
「……俺も、そうだった」
若き日の王の声が、かすかに震えていた。
「お前のために、生きたかった。
だが俺は、王にならねばならなかった」
あやのの星眼が、その光景を“記録している”のが分かった。
これは幻視ではない。
記録として刻まれる瞬間に、同調してしまっている。
そして、さらに深部へ――
今度は、**王自身の封印された記憶の“内側”**へ、あやのの視界が滑り込んでしまった。
──そこは、無だった。
何もなかった。
時間すらなかった。
ただ、“失われた想い”だけが漂っていた。
(ここ……冷たい……苦しい……)
星眼が、限界を訴えていた。
見たくない。記憶したくない。
けれど、“封印”とは、視られることを拒まれた記憶だ。
そこに触れてしまった時点で、星眼の本質は逃げられない。
あやのの脳裏に、最後の声が直接響いた。
『私が、私を許すために、
誰かにこの記憶を残したかった。
けれどそれは、あまりに重すぎた。
……すまない。こんなかたちで、託してしまって』
──そして、あやのは目を覚ました。
布団の中で、全身が汗と涙で濡れていた。
視界は霞み、心はまだあの「無」の中にいた。
「……王様……」
彼女は初めて理解した。
王が、自らの過去を記録士にすら渡さなかった理由を。あまりに“私的”すぎて、あまりに“痛すぎる”からだ。
それでも、
誰かに「残したい」と思っていた。
だからこそ、星眼に託したのだ。
すべてを視るこの眼が、“記録する者”であってくれることを、祈るように。
その日、あやのは王に会わなかった。
会えなかった。
彼女の中で、王は「玉座の王」ではなく、
たった一人の“男”として、生き始めていたからだった。




