第二十章 星が見たもの
石板は、ずっとあやのの傍らに置かれていた。
黒い封印布に包まれ、たったひとつの机の上に、慎ましく。
開こうともしていない。
読む術も、まだ持たぬはずだった。
けれど──
(……また、夢の中で……)
眠りの底で、あやのは見る。
いつかの夜。星のない夜。
闇も、火も、まだ世界に名を持たなかった時代。
そこに、何かが“誕生した”。
それは命でも、概念でもなく、ただ“視るための眼”だった。
虚空にぽつりと浮かぶ、一対の瞳。
すべての始まりを“見る”ためだけに生まれた、原初の眼。
──そして、見てしまった。
世界が割れ、火が生まれ、水が嘆き、風が叫び、ひとつの孤独な神がそれらを編んで「存在」と名付けたことを。
神は、言葉を持たなかった。
ただ、繰り返した。
「あるがままにあれ」
その光景が、幾重にも重なりながら、あやのの目の奥に“刻まれていく”。
まるで、自分自身が見ていたように。
まるで、かつてそれを“視た者”の記憶そのものが、今なお宿っているかのように。
──目が覚めたとき、あやのは呼吸を忘れていた。
額には汗。手は冷たく。
けれど胸の内には、妙な静けさがあった。
「……これは、夢じゃない」
確信があった。
あの石板には、“視せる力”があるのではない。
あやの自身の“眼”が、記録を探し出し、引き出し、再生しているのだ。
「封印……本当に、少しずつ解けてる……」
あやのの瞳は藍に澄み、その奥に微かに金の光輪が揺れていた。
その日から、夜ごと“視る”夢が変わりはじめた。
・かつて“音”が言葉になる前、初めての旋律を編んだ鬼の記録
・人と鬼の境がまだ曖昧だった時代、契りを交わしたある男女の記憶
・“お正月様”と呼ばれる、神とも獣ともつかぬ存在が、誰かを抱いて現れた光景
視るたびに、あやのの心には痛みとともに静けさが降る。それはどこまでも“個人の記憶”ではない。
**魔界という世界が、あやのという器に“自らを語り始めている”**のだった。
ある夜、そっとあやのの額を撫でながら、梶原が言った。
「……最近、夢で泣いてることがある。自分では気づいてないかもしれんが」
あやのは微笑んで首を振る。
「ううん、気づいてる。泣きたくなるほど、美しい記憶を視るの。……それが誰のものかも、もう分からないくらいに」
「怖くはないか」
「うん。だって、これが“あの人の頼み”だったから。
そして……わたし自身の眼でもあるから」
星眼の記憶は、容赦なく積み重なっていく。
けれどあやのは、それを呪わなかった。
むしろ、誰かが見捨ててしまった記憶を、自分だけでも抱きとめていたかった。
それがいつか、世界の形になるかもしれないと、そう信じて。
──あやのの“星眼”は、ゆっくりと、しかし確実に覚醒し始めていた。
そして次に視る記憶は、
「魔界王自身が、封印した最後の記憶」。
それは、あやのにすらまだ近づけない、“禁忌の扉”だった。




