第十九章 王の記憶と、星の目
石の間から退出しようとした時。
背後で再び、王が口を開いた。
「もうひとつ、頼みがある」
あやのが振り返ると、王は卓の上からひとつの小さな石板を手に取っていた。
色褪せた黒曜の板に、かすれた文字が刻まれている。だが、その文字は――誰にも読めない。
「これを読める者は、すでに我が城にはいない。
だが……お前なら、あるいは」
そう言って、石板がそっとあやのの手に渡された。
触れた瞬間、何かが脳裏に焼き付いた。
言語ではない。
図でも、音でもない。
ただ、**“かつて確かに存在した記憶の痕跡”**が、星眼に吸い込まれていく。
(……これは、“視たこと”ではない。視させられた?)
あやのの体が、かすかに震える。
それを見て、王は目を細めた。
「その石板には、かつてこの地にいた“最後の記録士”が封じた、魔界創世の断章が眠っている。人にも鬼にも理解できぬ、ただ記憶することしかできぬ記録。……だからこそ、星眼の“記憶する目”に頼るしかない」
「どうして、そこまでして読まなければならないんですか……?」
あやのの問いに、王はわずかに視線を逸らした。
「我が王朝は、いずれ終わる。私はそれを……もう決めている。その後に続く世界の“礎”として、過去を完全に記す者が必要なのだ」
あやのは息をのんだ。
王は、自らの“終焉”を見据えていた。
それを恐れず、次へ手渡すために、“人ならざる者”に託そうとしている。
「この依頼は、強制ではない。お前が星眼の封印を、より深く解くことにも繋がる。……だが、それは同時に、“記憶する苦しみ”を背負うことだ」
あやのは、しばらく黙っていた。
石板から伝わってくる名もなき叫びと、沈黙を胸に抱えながら。
けれど──やがて、静かに顔を上げた。
「……やります。もし、この目が過去を忘れないためにあるなら、私はその記憶を残したい。王様が終わるのを見届けるためじゃなく、その先へ繋ぐために」
その言葉に、王の赤い瞳がほんのわずかに細められた。
「……あの人も、そう言った。“残すことで、人も鬼も続けることができる”と。……あの姫も」
言葉の端に、柔らかな微笑が浮かんだ。
それは“王”ではない、たった一人の老いた鬼の、遠い追憶だった。
こうして、
あやのは魔界創世の記録を継ぐ“記憶の継承者”として、王から唯一の依頼を託された。
星眼の封印は、これから少しずつ解かれ始める。
だがその代償として、あやのの脳裏には、誰も触れ得ない記憶が降り積もっていく。
それでも彼女は微笑んだ。
「わたしは、呪わない。見たことも、世界も、自分の目も」
それが、彼女の“生きる誓い”だった。
──魔王は、静かに目を閉じた。
その後姿に、かつての姫の影を重ねながら。




