第十八章 赤き瞳の私室
「真木あやの」
退出のために踵を返しかけたそのとき。
王の声が、玉座の奥からもう一度だけ響いた。
あやのが立ち止まる。
王の目が彼女に向けられたまま、静かに言う。
「ひとつ、話をしよう。客間へ来い。……ひとりでな」
その言葉に、梶原と幸が身を動かしかけた。
だが、あやのは手で制した。
「行ってきます。……すぐ、戻るから」
梶原は一瞬だけ目を伏せたあと、うなずいた。
「気をつけろ。あれは人の尺度で測れない。……でも、正義のない男ではない」
あやのが導かれたのは、王宮奥深くにある石造りの小さな部屋だった。
不思議と暖かく、天井は低く、壁には灯のない燭台が並んでいた。
だが、中央の小卓には湯が沸き、王自身がその湯で茶を淹れていた。
──玉座の王ではなかった。
そこにいたのは、年老いた鬼の男だった。
「坐れ。ここでは、客人ではなく“娘”として扱おう」
その言葉に、あやのの肩の力がわずかに抜けた。
王は茶を差し出しながら、言う。
「星眼――その名は、私がまだ若かりし頃、一度だけ聞いたことがある。遠い東の果てに、“万象を見てしまう子”がいたと。その者は、己の存在に耐えかねて、言葉も残さず消えたという」
あやのは、茶碗を持ったまま、静かに耳を傾けていた。
王の赤い瞳が、ふと遠くを見る。
「見ることは、祝福ではない。
見すぎることは、時に呪いとなる。
私はそれを、数多の民と弟子と、そして家族を見送ることで知った」
「……家族?」
あやのがぽつりと訊ねた。
王はゆっくりと頷いた。
「我が最愛の姫は、人であった。美しく、しなやかで、私に春の色を教えてくれた。だが、人は鬼よりも早く老い、早く逝く。……私はそれを、止められなかった」
その言葉に、あやのの心が震えた。
(この人も、愛した誰かを失っていたんだ)
「だがな、真木あやの」
王は卓に指を置いた。
その指の爪は細く、研がれていながら、震えていた。
「それでも私は、かつての姫を呪わなかった。
むしろ、鬼の王でありながら、あの人の生を見届けられたことを、誇りに思っている。だから……もし、お前が國護と共に在るのならば、私には止める権利などない。
だがひとつだけ、聞いておきたい」
王の赤い瞳が、真っ直ぐにあやのを見た。
「お前は、いつかすべてを“見てしまう”かもしれぬ。
その時、自分を捨てずに在れるか? 世界を、呪わずに在れるか?」
その問いに、あやのは長く黙った。
けれど、答えはすでに決まっていた。
「……わかりません。でも、わたしを信じてくれる人がいて、わたしを守ってくれる命がいて。それでもわたしが呪ってしまうなら、その時は……きっと、また誰かが教えてくれると思います」
「誰が?」
「“わたしはわたしでいい”って。……たとえば、父のような人が」
その言葉に、王の目がわずかに揺れた。
「……その言葉、姫も言ったな。『いつか世界を呪いそうになったら、王であるあなたが思い出して』と」
王はゆっくりと立ち上がり、あやのに背を向けた。
「ならば、私はお前を止めぬ。……ただし、いずれ魔界の歪みを知ることになる。そのとき、選べ。光であれ、闇であれ。お前の目が選ぶ道を、誰も否定できぬ」
あやのは、深く一礼した。
「はい。……ありがとうございます」
それが、王とあやのの“私的な”初対話だった。
一人の鬼として、そしてかつて愛した人の記憶を背負った王として。
あやのという存在を、心から“見届けよう”とする決意がそこにあった。
外に出ると、梶原と幸が静かに待っていた。
「どうだった?」と梶原。
あやのは、にこっと笑って答えた。
「うん。……あの人、寂しがり屋だった」
その言葉に、梶原は笑い、幸が鼻を鳴らした。
魔界にひとつ、
また新しい“絆”が生まれた日だった。




