第十七章 赤き瞳の王
魔界の王宮は、岩の奥深くに在るとされていた。
その道は門を越え、影の森を抜け、光のない地下の回廊をいくつもくぐる。
そして最後に現れるのは、沈黙そのものが支配する**“無音の間”**。
その中心に、玉座はあった。
──そこに、彼は座していた。
魔王。
名も告げず、名も問わず。
ただ、「王」として存在する美しき鬼。
赤い瞳。
暗闇よりも深い黒髪。
枯れた枝のように痩せた手には、齢が刻まれている。
けれどその姿には老いを超えた威厳が宿っていた。
肌は青白く透けるようでありながら、気配は一歩ごとに空間を焼く。
その背は異様に高く、衣の裾が床に流れるように垂れていた。
あやのは、緊張の面持ちでその玉座の前に立った。
梶原と幸は背後で控える。
それはあくまで「あやの一人の謁見」であり、他の者は王の前に出ることを許されなかった。
王は、あやのの姿を見下ろすでもなく、見透かすでもなく、ただ静かに視線を送った。
赤い瞳が、ふと揺れる。
「……お前が、星の眼を持つ女か」
声は、風のように乾いていた。
だがどこか、懐かしいような響きを孕んでいる。
あやのは、気圧されながらも答えた。
「……はい。真木あやのと申します」
「名は、いらぬ。星眼――その名の者が、我が地を踏んだことが初めてなのだ」
あやのの胸が、ひとつだけ脈打つ。
王は、指をひとつ立てた。
「目を見せよ」
あやのは、わずかにためらった。
けれど、拒む理由はなかった。
そっと顔を上げ、王の瞳を見返す。
封じられた星眼の奥、藍の虹彩に金の縁がふと揺らめいた。
その瞬間。
──空間が、震えた。
王の背後にあった玉座の幕が、風もないのにかすかに揺れ、
魔界中枢の精霊たちが、どこかで一斉に耳を伏せた。
「……なるほど」
王は瞳を細めた。
「この瞳は、世界の記憶に近い。
……見たものを、消さぬ。見た者を、離さぬ。
ならば、星眼を封じてここへ来たことこそ、智慧と見る」
あやのは、息を詰めていた。
王は、立ち上がる。
その身が立つと同時に、玉座のまわりの闇がひとつ、後ずさった。
「問おう。
人の娘よ。お前は、この魔の地にて生きるか。
名を持ち、役を持ち、我らの歴に名を連ねるか」
それは、契約だった。
魔界の王族でも、鬼でもなく――
けれどこの地に、“正規の来訪者”として生きるか否かを問う言葉。
あやのは、ほんの一瞬、後ろに控える梶原と幸の気配を感じた。
──あの二人がいたから、ここまで来られた。
ならば。
「……はい。私は、この地で生きます。自分の意志で、居場所を得て、人としてでも、そうでなくとも、在るべき姿で」
王は、長い指を胸の前で組んだ。
赤い瞳が、ふと細められる。
「そうか。ならば“客人”から“住人”となる。我らはお前を、記録する。真木あやの――この名、これより魔界に残る」
玉座の背後、岩に刻まれた古の石板が、ひとりでに音を立てた。
そこに、あやのの名が浮かび、ひと筋の光となって刻まれていった。
謁見は、終わった。
あやのが退出したとき、梶原が言った。
「お前、今……本当に“魔界の歴史”に、名を残したぞ」
あやのは、小さく笑った。
「うん。……怖くなかった。王様、少しだけ寂しそうだった」
その言葉に、幸がくぅんと鳴いた。
梶原はふと、玉座の奥にいるあの王の姿を思い出す。
あの赤い瞳の奥にあった、いくつもの“別れ”の光景。
そしてこう思った。
──あの王も、きっと誰かを見送ってきたのだ。
それでも、玉座に居続けたのだと。
そしていま、
新しい名前が記された。
あやのの名とともに、新しい風が、魔界に吹こうとしていた。




