第十六章 呼び声は王の間より
その朝は、いつも通りだった。
梶原は薪を割り、あやのは台所でだしを取っていた。
幸は縁側にいて、日向の中でぐるりと丸まっている。
小鍋の蓋がコトリと鳴った瞬間だった。
「……ッ」
幸の耳が、ピンと立った。
すぐに立ち上がり、門の方へと歩を進める。
梶原も、気配を感じた。
斧をそっと地に置き、あやのに目で合図を送る。
屋敷の門の外、深い霧の向こうから、足音がひとつもせずに近づく何かがいた。
そして、すぐにその姿が現れる。
漆黒の衣をまとった、細身の女。
顔は覆われ、紋章だけが胸に煌めいている。
──王直属の影使い。
「真木あやの殿へ、魔王陛下より謁見の御指名を賜りました」
声は澄んでいて、響きが異様にくっきりとしていた。
あやのは小さく息を呑む。
それは――この世界における「公人」としての扱いだった。
「理由は、陛下自らが語られるとのこと」
封筒が差し出される。
黒漆に銀で縁取られた、重い紙。
梶原が代わりに受け取ったその瞬間、わずかに額に汗が浮いた。
「これは……重たいな。謁見というより、査問に近い」
「……私、行くべきなんだよね」
あやのが静かに尋ねた。
梶原は封を開かずに頷いた。
「避けることもできる。でも、遅かれ早かれ向こうは来る。それに……お前が“人間でありながら、魔界に受け入れられた存在”になった以上、存在自体が問われる」
「私は……星眼を隠してる。まだ封も解けきってない」
「でも、封は“反応”してる。……王は、それに気づいてる」
あやのは少しだけ、下唇を噛んだ。
不安がなかったわけではない。
けれど、自分を信じて待つ人がいる。
自分を守ってくれた命がある。
──逃げない。もう、そう決めたのだ。
「梶くん、幸。……付き添ってくれる?」
「ああ。何があっても、隣に立つ」
「……ワン」
そしてその夜。
あやのは一通の返事を書いた。
魔王宛に――真木あやの、謁見に応ず、と。
筆跡は美しく、静かで、けれど震えていなかった。
翌朝、使者はそれを受け取り、再び霧の中へと消えていった。
あやのは、身支度のため白衣を整え、髪を結い直しながら鏡の前に立つ。
「……変わったな、私」
星眼の封印はまだある。けれど、瞳の奥に微かな藍色が揺れた。
何者にも染まらず、けれど何者も拒まない――
あやのという存在そのものが、ついに魔界の“表”へ踏み出す時が来た。




