第十五章 忍犬の背、血の匂い
あやのが気づいたのは、春の気配が緩んだある夜だった。
梶原が町へ出ていて、屋敷にはあやのと幸だけ。
火を落とし、眠る前に縁側で風を感じていた時のこと。
何かが、遠くで、切れた音がした。
金属でも木でもない。もっと鈍く、ぬめった音。
(……音? いや、感覚の方が先だった)
その時、あやのの中に眠るすべての感覚が、ぴたりと立ち止まった。
──呼ばれている。
音にならない叫びが、背中を這った。
気づけば、素足のまま庭へ飛び出していた。
竹林を抜けた先、風のない崖の上。
そこにいたのは、血にまみれた幸だった。
その前には、倒れた魔界の刺客。
体の中心から裂け、息ひとつ残さず絶命していた。
幸はその上に立ち、牙を剥き、まだ動かぬ敵に対して、もう一撃加えようとしていた。
「──幸!」
声が出たのは、本能だった。
一瞬、幸が振り返る。
その黒い瞳は、いつものように優しくなかった。
獣の目だった。
あやのを守るための、殺意に濡れた戦士の顔。
あやのは立ち尽くす。
そして──息を呑んだ。
幸の右肩に、深く切られた傷がある。
血が流れ、黒い毛がその周囲だけ赤く染まっていた。
「なにそれ……なんで……!」
幸は一歩も動かず、ただその場に伏せた。
まるで、“見られること”を許すように。
(……わたし、なにも知らなかった)
いつも膝に頭を乗せて、くぅんと甘えて、
焼いたクッキーに目を輝かせて、
夜はそっと部屋の前で見守ってくれていた――その幸が。
その幸が、
こんなにも血にまみれて、わたしのために命を賭けていたなんて。
あやのは、震える手で幸の肩に触れた。
熱い。
血がまだ止まっていない。
「……だめだよ、なんで……なんでそんなの、わたしに黙って……!」
涙がこぼれた。
幸は黙ってその手を受け止めた。
怒っているんじゃない。
悲しんでいるんじゃない。
──ただ、あまりに愛おしかった。
「……ありがとう。幸。
ごめんね、ずっと知らないふりして……でも、もう知ってしまったよ。
あなたが、どれだけわたしのために“影”で生きてきたか」
幸はその言葉に、ようやく目を伏せた。
そして、ゆっくりとあやのの胸元に頭を預ける。
「帰ろう。傷、手当てしなきゃ……」
あやのはそう言って、幸を抱き上げた。
黒い毛が血で重くなっていたけれど、気にしなかった。
今、抱いていたかった。
この命を、自分の腕で包んでいたかった。
その夜、あやのは幸の傷を洗い、薬を塗り、ずっとそばにいた。
幸は一言も吠えず、ただ静かにその処置を受けた。
そして、あやのが眠る時。
その枕元で、幸はようやく目を閉じた。
穏やかで、優しくて、
どこまでも忠義に満ちた忍犬の寝息が、そこにあった。
──あやのは知った。
この世界には、「名乗らぬ騎士」がいることを。
そして、自分はその守られた幸せの上に立っていたことを。
翌朝、梶原が戻ると、
寝室の前には、並んで眠るあやのと幸の姿があった。
「……そうか。見たんだな」
梶原はそっと、ふたりに毛布をかけてから、小さく言った。
「安心しろ。お前も、あいつにとって“主”だ。……あの子は、そう決めて生きてる」
そしてひとり、背を向けて空を見た。
守られている者たちの、その儚くも強い灯を胸に。




