第十四章 黒影、ただひとりの主のために
静寂の夜。
月すらも欠けた魔界の空に、ひとつの影が疾走する。
風を裂き、枝を潜り、瓦を滑り、
音なき音を連れて、その黒影は屋敷の背後に着地した。
──それは、幸だった。
表向きには、任務として魔王の元へ派遣されたことになっている。
けれどそれは“欺瞞”だった。
実際に下された命は、ひとつ。
「あやのの存在を把握し、万が一の際には排除せよ」という冷酷な指示。
だが幸は、命に背いた。
彼女の主は、もう梶原ではない。
その黒き瞳が映すのは、あやのただひとり。
「──排除など、あり得ぬ」
そう口にすることはない。
犬は言葉を持たない。
けれど、その行動こそが、意志だった。
幸は屋敷の外縁を一夜に何度も巡回する。
あやのが眠る時は、屋根裏から音もなくその寝息を見守る。
風が変われば、その方角へすぐに走る。
その夜も、異変は小さな兆しからだった。
あやのが縁側に茶を置いた瞬間、茶碗がひとつ──微かに振動した。
普通の人間には見えない。
だが幸の目には、霧のような“気”の乱れが一瞬だけ見えた。
──侵入者。魔界語で「ケグレ」。
あやのの背後、竹林の奥に何かが潜む。
すぐさま幸は地を蹴った。
次の瞬間には、すでに竹の間を駆け抜けていた。
闇のなか、気配を消して進む影と影。
相手は瘴気をまとった小鬼の斥候。
あやのという“特異な人間”を嗅ぎつけて、様子を窺っていた。
(まだ、“命”は下っていない。ただ、知ってしまえば動く者も出てくる)
幸は無音のまま跳躍した。
刹那、黒い毛並みが月のない空を裂く。
一閃。
牙が閃き、斥候の喉元に風が通った。
音も悲鳴もなく、小鬼は塵へと還った。
“誰にも見つからないように”
“何も起こらなかったように”
それが、忍犬としての仕事だった。
任を終えた幸は、何事もなかったかのように屋敷へ戻る。
すでにあやのは布団に入り、夢の中だった。
彼女は知らない。
その眠りが、どれほど多くの命と影に守られているかを。
翌朝。
「幸、おはよう。……あれ、足、泥ついてる」
あやのがタオルを持ってしゃがみ込む。
「もう、そんなに走り回って……夜もゆっくり寝ていいのに」
そう言いながら、そっと足先を拭う。
幸はじっとそれを受け入れている。
その瞳の奥に浮かぶのは、守られる者ではなく――守る者の光だった。
(あの人の瞳が曇るなら、すべての影を噛み砕くまで)
それが、黒い忍犬の誓いだった。
誰にも知られぬ忠義。
誰にも届かぬ愛情。
──けれど確かに、あやののそばに在る命。
それは、彼女がこの魔界で得た、もう一つの“家族”のかたちだった。




