第十三章 黒き影、開かれる門
朝の霧が、屋敷をうすく包み込んでいた。
風もなく、鳥も鳴かず、魔界の時間が一瞬だけ止まったような空気。
その異変に、誰よりも早く気づいたのは、幸だった。
廊下に静かに立ち上がると、尾を水平に伸ばし、忍びの姿勢で外へ向かう。
口にくわえていた木の玩具をそっと置くと、鋭い双眸で森の向こうを見据えた。
──来た。
その気配は、まるで空間ごと切り裂いて現れたかのようだった。
紫の霧を引き連れ、一人の女が立っていた。
背丈は低く、顔も見えない。けれど――ただ者ではない。
彼女が幸に向けて、黙ってひとつの封を落とす。
黒漆塗りの巻物。
魔王直属の命符。それは、拒絶のできない召喚状だった。
数刻後、梶原がその封を開く。
「……来たか」
声が低く、鋭くなる。
あやのが不安そうに振り向いた。
「なに……? どうしたの?」
梶原は答える前に、巻物を幸の足元に置く。
幸はぴたりとその前に伏せ、目を閉じた。
「魔王直轄の特使からだ。幸に任が下った」
「任……って、任務?」
梶原は頷く。
「これは、俺が将軍の座から下りる時に約定した“最後の義”……幸は本来、俺の直属の守犬だった。俺の身を離れ、主なき身になった時、代わって王の命を受ける。それが忍犬としての契約だった」
「行かなきゃ……だめなの?」
あやのの声が少し揺れる。
幸は立ち上がり、すっとあやのの前に座った。
小さく一度だけ鼻を鳴らし、あやのの掌に自ら頭を預ける。
「……幸……」
「心配いらない」
梶原が静かに言った。
「これは“忍び”としての形式だけだ。
たぶん、実働ではない。……俺たちがこの国に戻ったことへの、王からの挨拶だろう」
「じゃあ……」
「問題なのは――あやの、お前だ」
「……え?」
梶原の目が、真っ直ぐあやのを射抜いた。
「この先、魔界の“中枢”が、お前の存在に気づく可能性がある。星眼の力、俺との関係……そして、“人でありながら異界に溶けた存在”として」
あやのの手が震える。
けれど、幸がその手をそっと舐めた。まるで「だいじょうぶ」と告げるように。
梶原は言う。
「だからこそ、今のうちに心と体を整えろ。
俺とお前が、これからどこに立つべきか。……その時が、近づいている」
あやのは、黙って頷いた。
「……わたし、逃げないよ。幸が戻る場所、ちゃんとここに守る」
その日から、幸は数日間、任地へと赴くことになった。
その背に布を巻き、梶原と無言の視線を交わして、闇に消えた。
その出立を、あやのは涙を見せずに見送った。
「帰ってきたら、特製クッキー焼くからね」と小さく言って。
──蜜月に射した、小さな影。
けれどその影は、あやのという光が強くなった証だった。
そしてふたりは、次の扉へ向かう。




