第十二章 黒き護り手
その屋敷は、魔界の山の中にひっそりと佇んでいた。
石畳を静かに踏むと、竹林の向こうからひとつの影が音もなく現れる。
──忍犬・幸。
その黒い毛並みは、夜を思わせるほど深く艶やかで、
鋭い耳は、風の鳴き声すら聞き分ける。
あやのが微笑んで手を伸ばすと、幸はすっと寄り、ぬんと額を彼女の掌に押しつけた。
「ただいま、幸」
「……おかえりなさい、って顔してるな」
梶原が横からつぶやく。
幸は一度、くぅんと鼻を鳴らしてから、あやのの足元をぴたりと守る位置に伏せた。
その動作には、訓練された者だけが持つ気配の消し方と、計算された優雅さがあった。
昼下がり。
ふたりが縁側で日向ぼっこをしていると、幸はしれっと膝に乗ってきた。
「……あの、幸さん。重いです」
「にん……じゃないのか?」
「忍犬でも、乗るのは好きなのよ、きっと……女の子だし」
「いや、それはただの犬として……」
「だめ。可愛いの。乗ってていいの」
あやのの声に、幸は誇らしげに鼻を鳴らした。
きゅるんとした瞳で、梶原の方をちらりと見やる。
──この女の子は、私が守る。
そう言っているようだった。
夜。
囲炉裏に火が灯り、あやのが夕食の準備をする間、幸は屋敷の警備に回っていた。
忍び足で屋根を移動し、物音ひとつ立てずに裏山を巡回する。
梶原と交信するように、時折、低く鳴いて位置を知らせる。
「……あれで、俺より先に異変に気づく。人の言葉こそ喋らないが、思考は近い」
「ねえ、梶くん……幸ってさ」
「うん?」
「時々、すごく“女の子”な顔するの。……私、ちょっとだけヤキモチ妬いてるかも」
「はは……あいつも、お前が好きなんだよ」
湯上がり、濡れた髪を乾かしているあやのの横で、幸が静かに座っている。
「……今日も、守ってくれてありがとう」
あやのがそう囁くと、幸はそっと手の甲を舐めた。
その仕草に、あやのは胸が詰まるほどの愛情を感じた。
「この子がいてくれるだけで、わたし……平気で魔界で暮らしていける気がする」
「俺じゃなくて?」
「……梶くんも、もちろん」
思わず笑って、ふたりの視線が重なる。
幸も、安心したようにその間にすっと入り込み、ふたりの手の上に顔を置いた。
──その夜、幸は寝室の戸の前で、静かに伏せていた。
けっして中には入らない。
けれど、何かあれば即座に対応できる場所で、じっと耳をすませていた。
忠義と愛情と、忍びの矜持を胸に──
あやのの夜を、見守り続けていた。
そして、朝。
ふたりの寝室に差し込む光と同時に、幸が「クゥン」と鼻を鳴らす。
それが、目覚ましの合図。
「……おはよう、幸」
あやのが布団から顔を出すと、幸はぴょんと跳ねて、その頬にそっと鼻先を触れさせた。
その一瞬が、今日も一緒に始まるという“しるし”だった。
──蜜月は続く。
ふたりと一匹。
笑いと温もりが、ひとつ屋根の下に、確かに存在していた。
それは、決して誰にも壊せない“しあわせの型”だった。




