第二十五章 東堂教授、ランチに来る
月曜日。晴れ。
「出るビル」では、例によって朝から食器がカタカタと音を立て、スープの香りが階段にまで漂っていた。
司郎がキッチンで野菜を刻み、梶原が慣れた手つきでパスタを茹でている。
あやのはランチョンマットを並べながら、足元をうろうろする地縛霊たちを優しくよけていた。
今日は特別な日だった。
司郎の大学時代の恩師、建築界の重鎮・東堂真之教授が、この「出るビル」こと「司郎デザイン」の新事務所を視察に来るというのだ。
正午を少し回ったころ、重厚なノック音とともに、一人の老人が現れた。
「おお、司郎か。相変わらず、見栄えのしない顔だ」
「先生……わざわざありがとうございます。って、開口一番失礼ねえ」
「うむ、褒めておるのだよ。貴様はそのままでいい。余計な華やぎがない分、建築に集中できる」
あやのは玄関で控えていた。やわらかく一礼し、口を開く。
「初めまして。真木あやのと申します。……お靴、どうぞこちらへ」
「うむ、君が噂の“生きた福の神”か。なるほど、声がいい。耳に響く」
「……ありがとうございます」
あやのは、微笑みを湛えながらも、内心で少し緊張していた。東堂教授の観察眼は、こちらの“中身”まで見透かしてくるような深さがあった。
ランチの席には、色とりどりの野菜の前菜と、自家製のパン、きのこと栗のクリームパスタが並んだ。
それを見た教授は、ひとつ鼻を鳴らし、椅子を引いた。
「……すでに半分、建築家ではないのではないか?」
「その件は、お弟子さんが家庭的過ぎてすみません。どうぞ召し上がれ。いただきます」
「いただきます」
全員の声が重なった瞬間、東堂教授の視線がピタリと止まった。
食卓の隅、グラスが一つ、ぴくりと震えている。
「あれは……地縛霊か?」
あやのは、すっと立ち上がり、エレベーターの方へ目をやった。
「山形さん。今日はお客さまです。……大人しくしてね」
エレベーターからひょいと覗いた首吊り霊・山形が、ぺこりと頭を下げて、すうっと消える。
東堂教授は一瞬沈黙し、スープを一口すすった。
「……実におもしろい。ここは“出るビル”か。実在したのか」
「はい。住んでおります」
教授は目を細めて笑った。
「司郎、君にぴったりの場所だ。理屈に合わぬ事象をそのまま飲み込む才覚は、凡人にはない。君がやるなら、私はそれに乗ろう」
司郎は一瞬、目を見開いた。
「……つまり、教授?」
「初仕事だ。都市の古い音楽ホールを再生するプロジェクト。君たちの“変わった視点”に賭けてみたい」
「……!」
あやのは思わず、スプーンを握りしめた。
それが──「司郎デザイン」の最初の一歩だった。
ランチの終わり、東堂教授はゆっくりと椅子を立ち、ポケットから金属製の小さな風鈴を取り出した。
「これは、亡くなった妻が好んでいたものだ。……よければ、ここの窓辺にでも」
「……なぜ?」
「彼女も、“この空気”を気に入る気がする」
その日から、「出るビル」の窓辺には、小さな鈴の音が時折鳴るようになった。
幽霊にも、人間にも、心地よい音だった。