第十一章 蜜月の庭
そこは、魔界の山間にある小さな屋敷だった。
本来、誰も住んでいないはずの古い屋敷。
梶原がかつて将軍であった頃、唯一「人を迎え入れたい」と思って作らせた隠れ家。
庭には小さな池があり、風に揺れる花が咲き、ほんのりとした灯が夜を照らす。
魔界とは思えぬ静けさに満ちていた。
朝、あやのはいつも早く目を覚ます。
鳥はいないが、風の音や水のさざめきが自然の時計のようだった。
台所に立ち、見よう見まねで梶原の好物を作る。
最初は失敗も多かったけれど、梶原はいつも笑って平らげた。
「この焦げ、好きだぞ。味がある」
「嘘だぁ。ほんとは苦いって思ってるでしょ」
「いや、これは……“炙りの妙”だ。貴族の味だ」
「うそつけー」
笑いながら、ふたりで湯気の立つ器を囲む朝。
何気ないそんな時間が、いちばん幸せだった。
昼は庭を歩く。
あやのは白い日傘をさして、池の鯉に話しかけるのが日課だった。
「あなたも祝言のときいたわよね。ちゃんと見てたでしょ」
「……鯉が緊張してるように見えるのは、俺だけか?」
「ふふ。きっと、キスのとこでびっくりしたのよ」
梶原が隣に腰を下ろし、何も言わずにあやのの肩に手を添える。
風が吹くたび、彼女の髪が揺れ、頬をくすぐる。
その柔らかさに、彼は何度も心をほどかれていた。
夜。
あやのは湯を沸かし、湯殿に一番風呂を入れてから、そっと梶原を呼ぶ。
「お先にどうぞ」なんて言いながら、自分はあとでこっそり入るつもりだった。
けれど──
「じゃあ一緒に入るか」
「……えっ」
赤くなったあやのを背に、梶原は「冗談だ」と笑った。
けれど本心では、いずれそうなる日を夢見ていた。
布団を並べて眠る夜。
まだ同じ布団には入らず、けれど指先はいつも触れ合っていた。
「今日も、あなたといられてよかった」
「明日も。明後日もだ」
「……じゃあ、ずっと?」
「……ずっとだ」
その言葉だけで、あやのはすやすやと眠ってしまう。
その寝息を聞きながら、梶原は目を閉じる。
すべてを守ると誓った夜だった。
蜜月の屋敷は、小さくて、古くて、何もなかった。
けれどふたりにとっては、どんな城よりも美しい時間が流れていた。
静かにふたりだけの世界が満ちていく──
それは、嵐の前の穏やかな奇跡だったのかもしれない。
──そして、次なる扉が開かれる日が近づいていた。




