第十章 朝のことば
障子の隙間から、柔らかな光が差していた。
春の魔界は、人の四季とは少し違う。
けれどこの朝は、たしかに“春”と呼べるような、優しい温度に満ちていた。
白い布団のなか、梶原國護は静かに目を開ける。
そして、その腕のなかにすっぽりと収まって眠るひとりの姿を見つめた。
真木あやの。
妻となった、小さな命。
昨夜、すべてを重ねたあとのあやのは、どこか少し変わったように見えた。
目元の力が抜け、身体から緊張がほどけていた。
まるで、一輪の花がそっと開いたかのような──そんな安らぎ。
その頬に、梶原はそっと指先を伸ばした。
すべすべとした白い肌。
耳元にかかる髪は、真珠の光を帯びてゆっくりと揺れている。
まるで夢を編む糸のようだった。
「あさ……ですか……?」
微かにあやのが目を開けた。
声はまだ眠たげで、けれど恥じらいと幸福の気配を含んでいた。
「ああ。……起こしたか?」
梶原の声はひときわ低く、優しく響く。
あやのはかすかに首を振って、顔を梶原の胸に押しつけた。
「……あったかい」
「そうか」
しばらく、ふたりは言葉もなく、互いの心音を聴いていた。
時折、布団の中で脚がからまったり、呼吸のリズムが重なったり、
その小さな偶然すべてが、ただの“愛”だった。
「……ねえ、梶くん」
「ん?」
「わたし、もう“こわい”って言わないようにする」
梶原が、視線を下げる。
そこには、決意とも照れともつかない表情で、こちらを見つめるあやのがいた。
「あなたのとなりで、恥ずかしいことは、もう全部やっちゃった気がするし」
「はは……それは少し、嬉しいな」
「でもね、言いたいことがあるの」
「……聞こう」
あやのは少し真面目な顔をして、体を起こした。
長い髪が、さらりと裸の肩を滑って落ちる。
「ありがとう。あんなに優しくしてくれて。……あんなに、大事にしてくれて」
「……当然だ」
「でも、それが“当然”だって思える人に出会えたのが、何より幸せだよ」
梶原は何も言わなかった。
ただ、あやのを引き寄せて、抱きしめた。
胸の奥がきゅうと詰まって、声にならなかった。
「……俺の方こそ、ありがとう」
「ふたりで、生きていこうな。どんな場所でも。何があっても」
あやのは静かに頷いた。
そして、もう一度だけ、布団のなかに潜り込んだ。
「じゃあ……もうちょっとだけ、このまま」
「……ああ。好きなだけ、ここにいろ」
そうしてまた、ふたりは寄り添い、春の光に包まれる。
ただ静かな、幸福の朝。
何の事件もない、優しい約束の朝。
──この日を、ふたりはいつまでも忘れない。




