第九章 降りてくる幸福
「疲れただろう? なかなかの強行軍だったな」
囲炉裏の残り火がほのかに揺れる。
梶原の声は、木の幹に似た低さであたたかく、どこか遠くを懐かしむようでもあった。
あやのは、小さく首を振る。
真珠のような髪が肩から背へと流れ、淡く灯る光のなかで波打った。
その姿はまるで、凛と咲いた夜の百合。
まだ何も染めぬ白が、見る者の心を揺らす。
「……あのね」
ぽつりと、あやのが言った。
その声は震えていたけれど、決して怯えてはいなかった。
「その……わたし、身体はもう“そう”なったけど……まだ“血の道”は来てなくて……」
言葉が続かず、俯いてしまう。
「でも……今日は、するの?」
その問いは、まるで朝露のようだった。
触れれば壊れてしまいそうな、けれど確かに存在する繊細な願い。
梶原は、迷いなくその手を取った。
あたたかく、大きな掌。
「怖いなら、しない。けど……俺は、お前と繋がりたいと思ってる」
「子供のことは……焦ってない。まだそのときじゃない。お前の心が先だ」
あやのは、かすかに笑った。
「怖くないよ。でも……はずかしくて」
「裸は、まだ誰にも……見せたこと、ないから……」
その言葉のあと、沈黙が降りた。
小さな肩がすこし震えたのを、梶原は見逃さなかった。
その震えを、
その声を、
その不器用なまっすぐさを──
すべて、愛おしく思った。
梶原はそっと口付けた。
そのひたいに。まぶたに。頬に。
「大切にする」
そう誓った。
腕に抱きしめ、自分の胸へとあやのを引き寄せる。
「聞こえるか? これが俺の……お前だけの鼓動だ」
少しして、梶原はぽつりと漏らす。
「……すまない。我慢の限界みたいだ」
その声は低く、熱を孕んでいた。
けれど獣ではなく、ひとりの男として──
深く、あやのを欲するまなざしだった。
あやのは、少し迷い、そして──頷いた。
途端に降ってくる、深い口づけ。
触れるというより、噛み付くような、強く、熱いキス。
白無垢の裾がほどかれ、肌が赤らんでいく。
その一つひとつに、視線が絡む。
どこまでも優しく、けれど確かに“雄”の眼差し。
けれど、怖くなかった。
あやのは知っている。この人が、誰よりもやさしいことを。
だから──
その愛を、微笑みで受け取った。
夜が深まり、囲炉裏の火が消えるころ。
布団のなか、素肌と素肌が重なる。
まるで雨音がやむように、心が静かに満ちていく。
──朝。
開け放った障子の向こうに、春の陽が差していた。
あやのは、梶原の胸のなかにいて、静かに眠っていた。
彼の大きな腕に抱かれたまま、ほっとしたような寝息を立てていた。
肌に光が降りる。
祝福のように、静かに。深々と。
この一日が、ふたりの新しい暦のはじまりとなる。




