第八章 白無垢の花嫁
風はなかった。
けれど、白い布がゆっくりと揺れていた。
魔界の深奥、静謐なる花の社──
梶原がかつて将軍として治めていた一族の隠れ里に、ひときわ美しい緋の屋根を持つ古社があった。
人と魔がともに歩んだ稀有な場所。今、その社はひっそりと、ひとつの儀式を迎えようとしていた。
──白無垢。
それは、本来この世界に存在しないはずの衣。
梶原が、あやののためだけに、遠野の縫い手に頼み、魔界の絹に似た糸で織らせた。
艶を押さえた、しんと白い布地。
あやのの真珠色の髪に添うように、花嫁衣裳が肩を包みこむ。
目元をすこし伏せ、紅をわずかに差された口元には、ひとひらの決意と、清らかな気高さが宿っていた。
「……似合うかな?」
控えの間で鏡に向かうあやのが、ぽつりとつぶやく。
付き添いの老婆──梶原の一族の巫女が、やさしく笑った。
「それはもう、まるで……白百合が降りてきたようじゃ」
その言葉に、あやのは少しだけ、微笑んだ。
それは心からのものではなかったかもしれない。
けれど、確かに未来へ進もうとする者の、顔だった。
社の奥、玉砂利の参道。
梶原が、すでに待っている。
彼もまた、式装束をまとっていた。
黒と朱を基調とした、魔界の正礼装。背筋はぴたりと伸び、古き誓いの剣を腰に下げていた。
玉砂利を踏みしめ、白無垢のあやのが社殿へと進んでいく。
衣擦れの音さえ祝詞のように響き、あたりの空気を清めるかのようだった。
社の奥、梶原が待っていた。
武人としての気迫を宿したまま、しかしその目はただのひとりの男として、あやのの姿を見つめていた。
「……綺麗だ」
そう口にした声は、ほんのわずか震えていた。
あやのは小さく微笑む。
その表情は凛として、揺らがなかった。
神前には、三つの盃が並べられていた。
小・中・大の順に重ねられた朱塗りの器。
これが、ふたりの魂を結び、名を交わし、未来を誓うための──三三九度の盃。
古来、人と神とを結ぶとされたこの儀は、魔界においても例外ではなかった。
むしろ、名と魂を重んじる魔族にとっては、最も尊い“誓約のかたち”だった。
老巫女が静かに告げる。
「今より、三たびの盃を交わし、九たびの縁を重ね、命を結ぶ」
まず、一献目──小盃。
あやのが盃を手に取り、梶原に差し出す。
梶原は両手で受け取り、一度、二度、三度と口をつける。
その所作に、誓いの重みが宿っていた。
そして、盃を返す。
あやのが受け取り、同じように三度、口をつける。
その眼差しが、ほんの少し潤んでいたのは、酒のせいではなかった。
続いて、二献目──中盃。
今度は梶原が盃を取り、あやのに渡す。
あやのがそれを受け取り、やはり三度、ゆっくりと口をつける。
その度ごとに、白無垢の袖がふわりと揺れる。
「……この盃に、私の心を込めます」
あやのの言葉に、梶原は軽く頭を下げる。
「受け取った。命に代えても守る」
それは、形式ではなく──真実の契りだった。
最後に、三献目──大盃。
ふたりが一緒に、その器を支える。
互いの手が重なり、酒がこぼれぬよう、静かに、慎重に口をつける。
一度。
二度。
三度──
たったそれだけの動作に、世界の重みが込められていた。
盃を置くと、社殿が静かに脈打つように震えた。
光が、天井の梁を走り、神鏡の奥が淡く煌めく。
「……これにて、ふたりの誓いは結ばれた」
老巫女が厳かに宣言する。
「今より真木あやのは、梶原國護の妻として、魔界に名を持ち、魂を記されし者と成る」
静けさの中、ふたりは見つめ合う。
星眼は、このときだけ静かに閉じられたままだった。
あやのが選んだのは、目に映る未来ではなく──この一瞬の確かな温度だった。
「……ようこそ」
「ただいま」
白無垢が、風もないのに微かに揺れた。
それは、ふたりの未来を祝福する“何か”が、そっと通り過ぎていった気配だった。
そして夜空には、魔界にあり得ぬはずの、星がまたひとつ、灯っていた。




