第七章 誓いの刻
石の社の内部は、外から見るよりも遥かに広かった。
天井が高く、空間そのものが歪んでいるように感じる。
壁という壁に刻まれた文様が淡く光り、そこから漏れる音のような何かが、心臓の奥に響いてくる。
ここは、魔界の“原初の律”が眠る場所。
名を持ち、魂を定める者だけが通される聖域──誓約の地。
あやのと梶原は、その中心に並んで立っていた。
梶原は膝をつき、右手を地に添える。
古い言葉で何事かを口ずさむと、周囲の光が脈打つように揺れた。
あやのの前にも、光の輪が浮かぶ。
その中心に、黒い鏡のような石板が現れる。
「そこに、名を。……真木あやのとして、この地に立つ意志を示せ」
梶原の声は凛としていた。
あやのは一歩、石板の前へ進む。
足音がやけに大きく響いたような気がした。
手を伸ばす。冷たい石の表面に、指が触れたその瞬間──
──何かが、見えた。
空が反転する。
時間の流れが、逆さまに落ちていく。
言葉にならない声が、頭のなかに響いた。
──なぜ来たのか。
──誰の命を受けて、門を越えたのか。
──その瞳は、誰のものか。
星眼が、ふたたび開きかけていた。
あやのは肩を震わせ、よろめく。
「……あやの!」
梶原が駆け寄り、支える。
その腕の中、あやのは額に手を当てていた。
まぶたの奥で、藍に浮かぶ金が、静かに、しかし確かに、うごめいている。
「……怖くない」
小さくつぶやいたあやのの声は、震えてはいなかった。
「この目が……何を見ても。私は、私でいるって決めたから」
そして、石板に指を滑らせる。
──真木あやの。
その名が、魔界の石に刻まれる。
直後、社の空気が変わった。
天井から、金の霧が舞い落ちる。
香のような香りが漂い、空間そのものが優しく脈動を始める。
“受理された”──この地に、ふたりの誓いは届いたのだ。
梶原は、あやのの手を取り、そっとその額に口づけた。
これは、この世界で最も古い結婚の儀。
魂を名で繋ぎ、生の軌跡を共有する“結び”。
「……お前と生きる、この地で」
「私も。あなたとなら、どこへでも」
互いの額をそっと重ねる。
まるで世界が息をひそめ、ふたりの言葉を聞いているかのように、静寂が社を包んだ。
その瞬間──
石板の奥、誰も触れていない壁が、ひとりでに軋む音を立てた。
ゴゴ……ン。
刻印のひとつが、光った。
まるで、あやのの星眼に何かが反応したかのように。
「……なんだ?」
梶原が一歩、前に出ようとしたとき。
あやのが、彼の腕を取って首を振る。
「いいの。今は、見ない」
その声には、かすかな戦慄と共に、“自覚”があった。
この目は、まだ開いてはならない。
いまは祝言のとき。命を結ぶとき。
その決意が、あやのを現実へと引き戻していた。
ふたりの影が、石の床に重なる。
魔界に刻まれた新たな魂の記録──真木あやのと、彼女を迎えた元将・梶原國護。
そして、その先に待つものは、ただの夫婦の暮らしではなかった。
星眼がすべてを見てしまう前に。
彼女が見なければならない“未来”が、まだ待っている。




