第六章 異界にて
空気が変わった。
門を越えた瞬間、それははっきりと感じられた。
ひんやりとした感触が、皮膚の内側まで染み込んでくる。
風はないのに、髪が微かに揺れているのは、この地に流れる魔力のせいだろうか。
魔界──
それはかつて、梶原が守り、そして離れた場所。
そして、あやのがこれから生きるかもしれない場所。
あたりには、黒曜石のような岩肌が連なり、空には色のない雲が漂っている。
それなのに、不思議と暗くはなかった。
地平から滲むような微光が、すべてを仄かに照らしている。
「……なんだか、不思議なところ」
あやのが静かに言った。
「生きてるんだ、すべてが」
梶原の声は低いが、どこか懐かしげだった。
「この空気、石、風も。全部、意志を持ってる。ここは……そういう世界だ」
あやのは歩き出す。
一歩ごとに、足元の地面が呼吸しているような感覚。
音が消える。草木のざわめきも鳥の声もない。
なのに、音が“ある”と感じる。
──声なき音。
あやのの耳が、それを拾い始めていた。
「……梶くん」
「ん?」
「さっき、星眼が……開いちゃったの」
「……ああ、分かってる」
梶原の声に、わずかに緊張が走る。
「ただ、あれは“自然な目覚め”じゃなかった。門の魔力が……刺激を与えたんだろう。無理に、封印をこじ開けるように」
「それって……」
「封印の術が、もう限界なのかもしれん。もしくは、お前自身が変わりはじめている」
あやのは立ち止まり、静かに目を閉じた。
身体の奥で、何かが目覚めようとしている。
けれどそれは力ではなく、もっと曖昧で、もっと危ういもの。
知覚。記憶。時間を超えて訴えかけてくる、“何か”。
「見てはいけないものまで……見えてしまう気がするの」
あやのの声は、静かに震えていた。
梶原はその手を取り、真剣なまなざしで応える。
「それでも、俺は傍にいる。お前が何を見ようと、何を感じようと、俺の知るあやのである限り、共にいる」
その言葉に、あやのは小さく息を吐いた。
それは安堵にも似ていたが、同時にどこか、決意を促されるようでもあった。
しばらく歩くと、視界が開けた。
岩と霧の狭間に、古びた社のような石造りの建物があった。
門を越えた者が最初に通るべき、「誓約の地」。
「ここで、魔界への“正式な踏み入り”の儀を行う。……お前の名と、その魂のありかをこの世界に記す」
「……魂の、ありか?」
「そうだ。ここから先、お前は“名乗らねばならない”。どこの誰としてこの地を歩くのか。何者として、誰と結ぶのかを」
あやのはゆっくりと梶原を見つめた。
その眼差しに、星眼のきらめきが、うっすらと揺れていた。
藍の奥に、金がわずかに輝く。
──星が再び、覚醒の兆しを見せていた。
「……私の名は、真木あやの」
あやのはまっすぐ前を見据えた。
「この人と歩むために、ここに来た。……この魂の行き先が、どれほど遠くても」
それは、あやの自身の“誓い”だった。
星眼に導かれるのではなく、自分の意志で踏み込む一歩。
社の奥、扉が音もなく開く。
奥へと誘われるまま、ふたりはまた進む。
その先に、ふたりを待つのは――
祝言か、それとも試練か。
ただひとつ、確かなのは。
もう、戻ることはない。
そして、星眼が再び開いたとき、世界はきっと、静かに姿を変えるだろう。




