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星眼の魔女  作者: しろ
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第五章 帰る場所

霧がまだ地面を這っていた。

遠野の朝は、東京よりも少し遅れてやってくる。


古い木造の家──梶原の手で何度も手入れされ、息を吹き返した場所。

縁側には、湯気の立つ湯呑と、黙って座る男の背中があった。


梶原國護は、静かに朝を待っていた。

言葉もなく、ただ両手を温めながら、庭を見つめている。

季節外れの薄紅の山椿が、ぽとりと地に落ちる。


幸せとは何か、などと考えることはない。

けれど今、あの娘が帰ってくると分かっているこの朝が、どんな戦場の勝利よりも静かに胸を満たす。


遠く、エンジン音が聞こえた。

梶原の耳が、そちらを向く。

すぐに、幸の鳴き声が小さく聞こえた。


 


家の前まで来たタクシーが止まり、あやのが降り立つ。

薄いコートの襟を風に押さえながら、山の空気を胸いっぱいに吸い込む。


ただいま。

言葉にはせず、でもこの空気にそう告げるように。


 


梶原は縁側から立ち上がった。

その姿を見つけた瞬間、あやのの表情がふっとゆるんだ。


彼は無言のまま、数歩だけ歩いて迎えに出る。

言葉よりも先に、その腕があやのを包んだ。


 


「……帰ってきた」

小さな声で、あやのが呟く。


「帰ってきてくれた」

それは梶原の答えだった。


 


しばらく、ふたりはそのまま動かなかった。

風の音も、鳥の鳴き声も、すべてがこの一瞬を包み込むように静まる。


やがて、あやのが顔を上げた。


「お待たせ」

「一生でも待つつもりだった」


冗談のようで、けして冗談ではなかった。

梶原の瞳には、確かな感情と、微かな潤みがあった。


あやのが帰ってきた。


ただそれだけのことが、梶原の胸をこんなにも満たすとは、思いもしなかった。

火を入れておいた囲炉裏の前で、ふたりは湯気を分け合いながら、朝を迎えた。


けれど──


それは終わりではなかった。

始まりだった。


 


「今日、門をくぐる」

梶原がそう告げたとき、あやのは小さく頷いた。


「うん、覚悟はできてる」

「……何が起こるか分からない」

「それでも、行くと決めたの。だから、私もちゃんと……見届けなきゃ」


ふたりは肩を並べ、山奥へと続く獣道を進んでいく。

誰も通らない、風の声しか響かない道。

その奥にあるのが、魔界と現世を隔てる「門」。


 


門は石でできていた。

苔むした鳥居のようにも見えたが、その表面には、人の理では読めぬ文様が深く刻まれていた。

異界の力が封じられ、同時に通路として開かれる場所。


「手を」

梶原が差し出すと、あやのは躊躇なく、その手を取った。


触れた瞬間、魔力が脈打つように空間を揺らし、空気がぴんと張りつめる。

梶原の手から伝わる熱とともに、門がゆっくりと開きはじめた──そのときだった。


 


──チリリ、と音がした。


いや、それは音ではなかった。

光だった。

光が、あやのの瞳の奥から滲み出た。


 


「……っ」

あやのはふと、額に手を当てる。

視界が反転したような感覚に襲われ、ぐらりと体が揺れる。

梶原がすぐに支えたが──


「おい、あやの……っ」


次の瞬間、彼の目に映ったのは、それだった。


星眼。

封じられていたはずの、藍のなかに金が浮かぶ、神秘の双眸が、門の魔力に触れ──僅かに覚醒していた。


その目が開いたとき、空気が変わった。

風が止まり、草木がざわめきを失い、時間さえ一瞬だけ凍りついたかのようだった。


「……見える」

あやのが、ぽつりとつぶやく。


「何が?」

梶原は声を潜める。だが、その腕のなかのあやのは、もう震えていなかった。


「……道が、ある。向こうに。魔界だけじゃない。もっと深く、もっと古い……声が、響いてる」


その声は、どこか異質だった。

だが確かに、あやの自身の声だった。


そしてすぐに──星眼はすっと、もとの藍色に戻る。

だが、そのわずかな間に、彼女は多くのものを見た。

記憶とも予知ともつかぬ光景が、心の奥に刻まれている。


「……大丈夫。戻ったよ」

あやのは深く呼吸し、梶原の胸に額を預ける。


「けれど……もう、戻れない気がする」


その言葉に、梶原はゆっくりと頷いた。


「それでも、お前が行くというなら、俺は共に行く」


言葉の代わりに、あやのの手が、梶原の指をきゅっと握る。

もう何が起きても、彼女はひとりではない。


 


石の門の奥──風のない、深い森へ。

ふたりは静かに、一歩を踏み出した。


魔界の地に足を踏み入れたその瞬間、世界が音を変えた。

それは、終わりの始まりでもあり、新たな物語の幕開けでもあった。

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